過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

なんだっていい。しかし鎌倉時代の祖師たちにひかれる

鎌倉時代の祖師のことを探求するのが大好きである。日課である。
とりわけ親鸞道元日蓮

哲学的、実存的な深みで、道元親鸞に惹かれる。
教義・法門の構築、その実践的な生き方として日蓮に惹かれる。

ただ、日蓮には、親鸞道元のような哲学的、実存的な深みは感じられない。

皮相的にいうと、形式論理で押していくところが強い。ただ、弟子や檀越に対しての心のこもった消息文にはすばらしい輝きがある。たいへんな名文であり、なにより文に勢いがある。
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さて、日蓮その人の思想を研究していこうとするとき、大きくはだかるのは、その遺文に「真筆」「真偽未決」「偽書」が混在していることだ。

「これは重要法門だ、真髄だ。すばらしい名文だ」というのが、じつは偽書なんてこともある。そして、偽書に名文が多い。あるいは、時代写本しかなくて後世に手を加えられていたりする。
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これらは、親鸞道元に見られないことである。多少の真偽未決があっても、大して問題視されない。

ところが、日蓮においては、重要法門において、偽書が多いので、遺文の真偽論争が延々と続けられるわけだ。

はたして、日蓮自身の書いたものなのか。日蓮からの口伝と言っているが、はたしてほんとうにそうか。口伝を受けた弟子の体裁で後世に作られた偽書もある。そして、かなり多い。
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そんなことで、日蓮を学ぼうとすると、書誌学的、歴史考証的な世界に踏み込んでいく。これはこれでおもしろいのだが、人生、生活、暮らしの役に立つかというと、そこは関係ない。

日蓮という人に仮託して書かれたものであれば、偽書でも真偽未決でもなんでもいい、生活に響いてくる、生き方の支えになる、心情を打つものであれば、それでいいじゃないかという読み方もある。いちおう、まあぼくはそういう立場で読んでいる。

というのは、日蓮が心中の師匠としていた最澄にも偽書が多い。日蓮が影響を受けた比叡山の本覚思想(円珍、円仁、源信)にも偽書が多い。
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で、そもそもいちばんの根本としていた「法華経」そのものが、釈迦滅後、数百年後に成立したもので、いわば偽書だ。ひとつつくられては、また後世が継ぎ足して、手直ししたパッチワークなのだ。

そうしてさらに、大乗仏教そのものが、偽書だ。釈迦に仮託して創作されだ文学運動のようなものだ。

すごいのは密教だ。なにしろ経典に釈迦が出てこない。説法するのは、大日如来、あるいは毘盧遮那仏、そしてその威神力を受けた菩薩が説法する。
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じゃあ、初期仏教こそ釈迦の真説なのか。というと、これも難しい。

いちおう、仏典の最古層の「ダンマパダ」「スッタ・ニパータ」あたりは、釈迦の真説に近いと捉えられている。

しかしそうはいっても、釈迦滅後に口伝でつたわっていき、文字として経典が成立したのはおそらく滅後百年くらいである。まあ、このあたり、キリスト教の成立も似たようなところがある。

宗教というものになると、どうしても開祖、教祖、神の言葉みたいなものを「権威」にしていく。頼りにしていく。

すると、ある教団が分派して、「自分たちこそが正しい」といいたいとき、偽書をつくるわけだ。「これこそが、真説だ。どうだ」というために。そのあたりの教団史、人間のありようというのも興味深い。
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まあ、そんなわけで、えんえんと原点をさぐっていくと、歴史考証学になる。
ぼくは仏教研究家ではなくて、暮らしのためにいそがしい。時間がない。

たいせつなのは、いまここに生きるということで、自分の感性で捉え、身体で掴んだものを味わい深めていこうとしている。だから、なんだっていい。しかし鎌倉時代の祖師たちにひかれる。