同時代に生きた日蓮と親鸞。それぞれ魅力的だ。どちらが思想的に深いか、より実存的かというと、それは親鸞のありようだ。まあともあれ、それぞれに味わい深い。
日蓮は、あまりに偏狭かつ攻撃的。情熱的。行動的。自分が正しいと思い込んでいる。論調は、形式論理的。
親鸞は肩の力が落ちている。おまかせ、的な生き方。他に向かっては、自分が正しいという主張をしない。しかし、深い部分で、弥陀によって救われると信じている。
それぞれの性格の違い、置かれた人生の状況もちがう。また。日蓮は60歳で亡くなり、親鸞は90歳だ。そういう人生経験の違いもある。
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日蓮の遺文を読むと、「戦記物」(たとえば平家物語)のような勢いがある。そこが魅力ではある。
そうして、創価学会、顕正会、妙観講など戦後の日蓮系の新興宗教はそのエネルギーを受けている。
親鸞はというと、自分は弥陀の信によって生かされている、それぞれは縁によってある、それぞれのはからいですすみなさい、と。信者を獲得しようとか、頑張ろうとかいうありようはない。
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ぼくは、基本は、親鸞の「おまかせ」「縁によってある」「めんめんのはからい」という生き方が好きだ。
しかし、いろいろ苦境に陥るとき、「よしがんばるぞ」「ここで勝負をかけなくちゃ」という時、日蓮の遺文が励ましのように出てくる。
なので、天台宗の行じゃないけど「朝題目、夕念仏」ってのもありなんですね。朝は、旭のエネルギーで、「さあがんばるぞ」。夕方は、夕日のような終焉の心で。「一日、よくやった。もうおまかせ」と。
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お二人の言葉を引用する。
日蓮の言葉
「経文に任せて権実二教のいくさを起し、忍辱の鎧を著て、妙教の剣を提げ、一部八巻の肝心妙法五字の旗を指上て、未顕真実の弓をはり、正直捨権の箭をはげて大白牛車に打乗つて、権門をかつぱと破りかしこへおしかけここへおしよせ、念仏真言禅律等の八宗十宗の敵人をせむるに、或はにげ或はひきしりぞき或は生取られし者は我が弟子となる。或はせめ返しせめをとしすれども、かたきは多勢なり法王の一人は無勢なり、今に至るまで軍やむ事なし」(如説修行抄:偽書の疑いもあるが52歳のときの作)
かしこへおしかけここへおしよせ、他宗教を攻め落とし、弟子にしていく。その軍(いくさ)は、生涯、やむことはないというのだ。
親鸞の言葉
「詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」「親鸞は弟子一人ももたずそうろう。」「つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる」「諍論をくわだてて、わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなりというほどに、法敵もいできたり。謗法もおこる。これしかしながら、みずから、わが法を破謗するにあらずや。」「諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべき」(歎異抄 晩年の親鸞から聞いた言葉を弟子の唯円がまとめたもの)
面々の御はからい。弟子一人ももたず。はなるべき縁あれば、はなるる。
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鎌倉時代の祖師たちは魅力的。
このお二人もいれば、道元の哲学的な深遠がある。
学びは尽きることはないなあ。