過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

【寝てばかりいる】2026.09.13

【寝てばかりいる】2026.09.13

朝から寝てばかりいる。

朝食でなんとか起きた。そして、また眠る。 

体が動かない。気力がわかない。

でも、気分が悪いわけではない。

このあたりで、また一つ、フェーズが進んだ(落ちた)のかもしれない。

これはこれで、このままの状態として受け入れていくしかない。

今の状態が、今日だけの一時的なものなのか、それとも、これからこういう日々が続いていくのかは分からない。 

トイレだけは何とか行けた。

朝食はほんの少し口にしただけだ。そして、また昼食である。

起き出して、文章を書いたり、ネットを見たりすることも、もう難しくなるのかもしれないな。

こうして、いつも眠っているようになるのか。

しかし、こうして肉体を離れてしまえば、それはそれで、結構なことなのだが。

窓から見える外の景色はどんより曇っている。はるか海の方は晴れてきているようだが。

①【過去への回帰】2026.09.12

寝たきり暮らしが長いと、過去のことを思い起こしては、「ああすればよかった。こうすればよかった」とよく後悔もする。何しろ暇だからね。

その世界に戻っては、夢のように遊ぶこともよくある。それが楽しみにもなってくる。

それは一種の甘美な世界に遊ぶってことでもあるかも。

自分の描いた自分の理想の通りに物事が進んでいく、「よおしうまくいった、いいぞいいぞ」と。

しかし、やはり現実とは違うんだから、どうしようもないよね。過去の幸せな自分の描く物語で遊んだというだけにすぎない。 

それに引き換え、この現実はうまくいってないわけで、現実逃避にもなる。それで「自分はつくづくダメなんだな」という自己否定に向かうこともある。

そんなことをしても、もはや過去には戻れない。だから「意味がない」と切り捨てることもできる。

過去の妄想と決別するのは、呼吸に意識を向けることで可能なんだけれども、次々と沸き起こってくるものだ。

そこで過去を安直に決別し、土に埋めないで、この沸き起こってくる過去の思い出、後悔といかに付き合うか、いかに共に暮らせるかということを探求してみたい。

過去の後悔、過去の思い出、やり残したことの数々などを、何か意味あるものとして活かせないかな。

そして過去に戻るという行為は、何か意味があるのだろうかと探求してみたい。

大きく言えば「自分自身の探求」に繋がるってことかなあ。

たとえば「自分はいったい何を大切にして生きてきたのか」「あの時の自分は何にとらわれていたのだろうか」ーーそんな探求にもなるのかも。(つづく)

【楽ちんな方向】2026.09.12

【楽ちんな方向】2026.09.12

入院生活になると、限りなく「楽ちん」な方向に流れるね。

看護師が朝食を持ってくる。朝食後には薬を持ってくる。お茶を持ってくる。私は終始寝たきりだ。

「冷蔵庫に入れておいてください」「あれを取ってください」「トイレの処理をお願いします」「シーツを直してください」。

何でもかんでもやってもらえる。

ベッドのテーブルの上は、結構ごちゃごちゃしている。いつも配膳の方が、片付けてくれる。

「少しは自分で片付けたほうがいいかな」と思いながらも、体が辛いので、そのままお願いしている。

あるとき、看護師さんから「食事をするときは、テーブルの上を片付けておいてください」と、きつく言われた。

そうやって言われると、やっぱり「そうしなくちゃな」と思う。

肺のほうはなんとか進行が止まっているようだが、筋力の低下は進んでいる。

理学療法士も毎日来てくれる。

立つにしても、座るにしても、なかなか辛くて動けない。

寝たまま、手足を預けて、手を曲げたり、足を曲げたりというリハビリである。

楽ちんな方向に流れると、限りなく楽ちんに流れてしまう。

これだと、家に帰って自立生活をするとなると、大そう辛いな……。あとのツケは払わなくちゃならないようになる。そこが怖いところだ。

さてさていろいろと、困ったことになりそうなのだ。

【食べるひと仕事】2026.9.11

【食べるひと仕事】2026.9.11

食事の時いつも苦しい。

「食べなくちゃ」ということで食べているが、食べるのは出された食事の20% 程度である。

食欲はあまりない。

美味しくない。食感が良くない。

食べる時の姿勢が辛いことも大きい。

誤嚥防止のために、なるたけ背筋を立てて食べている。いまは、電動ベッドの傾斜角度は46度だ。

この姿勢の維持が、なかなか辛い。二口、三口と食べては「ああ、疲れた」といって横たわりたくなる。だが誤嚥の恐れがあるので、そうもいかない。

お腹が減ってない上に「食べたい」という気も起きないし、体が苦しいのだから、ますます食事量は減っていく。

ヨーグルトとかゼリーの流動食なら大丈夫なんだが、これでは十分な栄養は取れないだろう。あとは、小さな「おむすび」に小分けにして瀕食にするか、だな。

それにしても、大して食べないのに食事をしたことで、何か「ひと仕事」としたような気がする。ちょっと食べては疲れて寝ている。

また、大して食べないのに、毎朝便通はある。少量だが便は出る。エネルギーは循環してるんだな。自然の流れだ。

こうしてかろうじて生きているわけだ。そしてこの流れはいつか止まる。

【声が出なくなっていく身体】2026.09.11

【落差】2026.09.11

昨日、見舞いに来たが人私を見て「すっきりしている。エネルギーがきれいになった」と言ってくれた。
お世辞で言うような人ではない。確かにそう見えるようだ。

単なる偶然かとは思う。内的には、あまり変化はないんだけどね。まあでも、理由を探してみる。

病院にいて安定した食事と不安のない暮らしなので、その辺で気持ちが落ち着いてきたのかもしれない。

この世への執着が離れて、次元が変化したのかもしれない。そろそろお迎えが近いかな。

あるいは、呼吸を観察するしかない日々だから、その辺で次元が少し変わったのかもしれない。

もうこの人生は十分だ。早く次へ行きたいよ。でも、行けないんだよね。
――みたいなことを繰り返し、こぼしているのだ。
「早く死にたいけど、死なせてもらえない」とぼやくじいさんになりつつある。

「声の力もあるし、元気だ」と言ってくれる。しかしまあ、安静なスタイルで寝ているだけだから元気なのであって、ちょっと動くと、もうしんどい。

歯ブラシを落として、それを拾いあげるだけで、血中酸素飽和度がぐっと下がってしまう。
ナースステーションでモニターを見た看護師さんが「どうしたんですか」と心配してやってくる。

【落差】2026.09.11

【落差】2026.09.11

昨日、見舞いに来てくれた人が、「すっきりしている。エネルギーがきれいになった」

と言ってくれた。

お世辞で言うような人ではない。確かにそう見えるようだ。

単なる偶然かとは思う。内的には、あまり変化はないんだけどね。まあでも、理由を探してみる。

病院にいて安定した食事と不安のない暮らしなので、その辺で気持ちが落ち着いてきたのかもしれない。

この世への執着が離れて、次元が変化したのかもしれない。そろそろお迎えが近いかな。

あるいは、呼吸を観察するしかない日々だから、その辺で次元が少し変わったのかもしれない。

もうこの人生は十分だ。早く次へ行きたいよ。でも、行けないんだよね。

――みたいなことを繰り返し、こぼしているのだ。

「早く死にたいけど、死なせてもらえない」とぼやくじいさんになりつつある。

「声の力もあるし、元気だ」と言ってくれる。しかしまあ、安静なスタイルで寝ているだけだから元気なのであって、ちょっと動くと、もうしんどい。

歯ブラシを落として、それを拾いあげるだけで、酸素がぐっと下がってしまう。

ナースステーションでモニターを見た看護師さんが「どうしたんですか」と心配してやってくる。

【「変化する」ーーこれは確実】2026.09.10

【「変化する」ーーこれは確実】2026.09.10

昨日の「いちりん楽座」で、私の朝の絶望感の記事に共感してくれた方がいた。

50代で脳出血を体験し、不自由な体で過ごしてきた。「あと、何十年も絶望の朝を迎える」というような話をしておられた。

私もこの朝の絶望感と無力感が「どれだけ続くかな、あと何日かな」とよく思う。

この世を離れればもうおしまいなんだろうけど、それがいつかは分からない。その時までは絶望感は

つづくわけだ。

「絶望感にある時、いかにしたらいいか」っていうのが毎日のテーマでもある。

結論として、何もできない。

ただ「絶望の淵にいる」って言うわけだ。

けれども、この絶望の時間は大体2時間でなんとかなっていく。徐々に体力と気力も湧いてくるので、それまで我慢することはできる。

ただ、絶望の淵にいる時は極めて気分が悪い。嫌な状態のままにいるのだ。

そんな時は、絶望そのものを味わうしかないということになる。嫌な感じ、重 さ、苦しさ、無力感を徹底して味わうわけだ。

それは工夫というよりも、そうしなくちゃならないからそうなる。ただ、鍵は「呼吸に意識を向ける」ということはある。

そうした時、絶望感の質とか量とかエネルギーが変化するのがわかってくる。

苦しみは一点だけであり、それが無限につづくわけではなくて、次から次へと微細に変化していく。

より苦しくなってもいくし、より楽になってもいく。そこはわからない。けれども「変化する」ーーこれは確実なのだ。

今のこの苦しみは永遠と続かない、今のこの瞬間でしかない。変化していく。

そのことがわかると、絶望感も少なくなるのかなあというところにいる。

【いちりん楽座】2026.09.10

【いちりん楽座】2026.09.10

昼の部∶15時〜17時

夜の部∶20時〜22時

昼の部は、病のネットワークとして、病を抱えている人をメインにしたカタリバ。

夜の部は、心と生き方の分かち合いなカタリバ。

ともに講座ではなく自由なカタリバです。

参加される方は、下記サイトをクリック。

meet.google.com/kzk-jgqh-ref

参加ご自由。顔出し不要。途中入退室ご自由。

9月10日の夜の部のテーマは、「生活保護」です。

セーフティネットとして、生活保護という制度があります。「貧乏人のインフラ」と言った人がいました。

今回は、制度そのものの是非や、「けしからん」といった議論ではなく、具体的な事例をもとに語り合います。政治や経済は論じません。

実際のところ、

「生活保護は、どうしたら受けられるのか」

「受給したら、どのようなことに注意が必要なのか」

――生活保護を実際に受給している方の話を聞きながら、一緒に考えてみたいと思います。

【潜水艦のなかの窓から】2026.09.09

【潜水艦のなかの窓から】2026.09.09

息苦しいという辛さを感じながら生きている。朝、起きたときがピークで、息苦しさと絶望感、無力感の中にいる。

息苦しいとか、無力感とか、絶望感とかいうが、どれも観念的な言葉だ。もっとしっくりくる言葉はないかな、と探している。

やっぱり、「沈んでいく潜水艦の中に閉じ込められた感じ」かな。

それが毎朝、どおーんと襲ってくるというか、その絶望感の中に生きている。

そんな中でも、この辛さを的確に表現する言葉を探している。的確な表現が見つかると、嬉しいものだ。

その表現、その言葉を鍵にして、自分の置かれている状況を客観的に見られる、ということでもある。

そうすると、この苦しさとともに暮らしていけるような感じが、少しつかめる。言葉によって苦しさと向き合おうとしているともいうる。

だから、私は常に言葉を探している。生きるために言葉を探している。潜水艦のなかの窓から。

【何もできない一日】2026.09.09

【何もできない一日】2026.09.09

朝食は、ほとんど食べられない。ヨーグルトぐらいか。

朝の薬は10錠ほど。胃の中で、いろいろなものが混ぜ合わされて、あまりいい気持ちはしない。

しばらくウトウトすると昼食が来る。しばらくウトウト。そうこうしているうちに夕食が来る。

こんな一日である。

「これじゃいけない、何か計画を立てよう」とは思うけれど、そういう元気も湧いてこない。

「なんとかなる」と思いながらも、「いや、この状態は何ともならないんだな」という感じで、一日が過ぎてゆく。

看護師さんと会話をした。

「この人生は、もうそろそろいいんだけどね」

「そろそろの人は、そんな感じじゃないですよ。まだまだです」

と、看護師さん。

「え、そうなの?」

「そう、まだまだです。これからまだまだ先があります」

と言われた。

「それは困るな。もういいんだけど」

「先が短い人は、もう本当に先が短い感じで、私たちには分かります。あなたは、まだまだという感じですよ」

そう言われた。

少し前までは、「先が短かすぎる」と言われれば、

「うわ、困ったな」

と思ったものだ。

ところが、今は違う。

この身体を抱えたまま、長く生きることを想像する。それは、ただ長く続く苦しみのようにも、刑罰のようにも思えてしまう。

身体に人生の主導権をかなり持っていかれている状態なのだ。

何か大きな目標ができたら、違ってくるのかもしれない。

けれど、目標があったとしても、そこまで歩む身体的な重圧、疲労感や苦しみというものが、あまりにも大きいなあと思う。 

できることは、「何もできない一日」を、こうして言葉にしているだけ。

【役に立っている】2026.09.08

【役に立っている】2026.09.08

病室の窓が激しい雨に吹き付けられている。

採血とレントゲンの日、10日一遍の周期で回ってくる。

調子が悪いからといって、パスするわけにはいかない。採血は痛くて嫌だし、レントゲンは放射線を浴びたくはない。しかも、病室から移動して撮影室まで行くのがつらい。

作業療法士と理学療法士が来てくれた。学生の実習生も伴っている。

こちらは立ち上がるのも難しいので、寝たままのリハビリであった。

「病のネットワーク」の語り場を、日中に開催してみた。病とともに生きていくことがテーマだ。病を抱えている人と、病人を支える人たちが参加者である。

ALSの方が参加してくれた。

40代で、5人のお子さんがいて、2年前に発症したという。

私の間質性肺炎と同様、治すことが難しく、病の進行を食い止めるための治療が中心である。

日々、病による無力感や絶望感、苦しみとの葛藤もあるだろう。やがて次第に身体が衰えていく、その先のことを思えば、つらい気持ちにもなるだろう。

私のFacebookの日々の発信を読んでくれていて、「とても励まされる」と言ってくれた。

「私も役に立っているんだ」と思えて、嬉しかった。

寝たきりの私でもできること。

病とともに生きている観察や気づきを発信していくこと。いろいろな人との語り合う場を持つこと。私自身の支えであり喜びだ。

【病のネットワーク・語り場の案内】2026.09.08

【病のネットワーク・語り場の案内】2026.09.08

参加される方は、下記サイトをクリック。

meet.google.com/kzk-jgqh-ref

今日で3回目になりますが、「病のネットワークの語り場」を行います。

時間は15時から17時までの2時間です。

現在、病を抱えている方、あるいは親しい人が病を抱えている方など、どなたでも参加をお待ちしています。

「病とともに、どうやって暮らしているのか、これからどうやって生きていくのか」

というところが、テーマでしょうか。少人数でまったり行きたいところです。

まあ、あとは気ままなおしゃべり。

なお、夜の「いちりん楽座」は毎日開催していますが、本日も20時から22時まで開催しています。

【泣き言】2026.09.08

【泣き言】2026.09.08

食事が終わってよこたわっていると、看護師さんが来た。

「食器をさげてもいいですか?」

「はい、お願いします‥‥」

かすれて消えていくような声なのだ。 

それからウトウト眠っていたが、眠っている分には、苦しさない。

目が覚めてるうちには、何をしても常に息苦しさがベースにある。

ちょっと動いただけで苦しくなったり、少し姿勢を変えると楽になったりする。常にベースには苦しみがある。息苦しさだ。

苦しい、楽になる。

苦しい、楽になる。

そんなことを繰り返して、一日が過ぎていく。

文章を書いているとき、音声入力をしているとき、ラジオで聞いているとき、「いちりん楽座」で語りあっているときには、多少苦しみが和らいでいるかな。

特に「いちりん楽座」は楽しみだ。毎日この2時間、3時間は、社会とのつながりを感じられる時間でもある。こういうルーティンの時間があることが、ありがたい。

「泣きごとを言うな」という非情な書き込みがあったが、そんなことを人から言われたくはないな。

みんなこういう事態になれば泣き言になるよ。泣き言を並べながら、日々の病状の観察を記録していっている。

この身体で一日を生きるとはどういうことかを描いていくのだ。

【お見舞の方へ】2026.09.07

【お見舞の方へ】2026.09.07

病院には、あと1週間か2週間くらいいるのかなと思っています。

その先は、自宅に帰るのか、療養型の施設に移るのか、まだ決めていません。

ともあれ、まだ病院にいますので、この際、「会いに行ってやろう」という方がいらっしゃったら、どうぞいつでもおいでください。

私は寝たきりの状態ですけれど、適当におしゃべりしてくだされば、気が紛れてありがたいです。まだ普通におしゃべりできます。頭も働きます。何でも食べることができます。

天竜病院の610号室です。面会時間は、13時から22時です。

個室にいますので、面会は全く自由です。入るときだけマスクが必要です。

池谷 080.5412.6470

天竜病院

〒434-8511 静岡県浜松市浜名区於呂4201-2

【継続は力なり】2026.09.07

【継続は力なり】2026.09.07

新しもの好きで気分が移りやすい私が、20年以上も投稿を休まない。

我ながらまさに「継続は力なり」と言っていい。唯一のことである。

文に表すのは、なかなか手間だ。

まず書く素材があるのかどうか、どう書いていいのかわからない。書いたとしても自分の言いたいことを十分に表していない。何しろ時間とエネルギーがいる。

「これじゃないんだけどなあ」とい自分の意を尽くしていないまま投稿してしまうのはいやだ。

読む人がヘンに受け取って、攻撃的なコメントをくれたりすると疲れる。

だから、多くの人はあまり投稿しないんじゃないかと思う。

だから「食事がおいしかった」とか、「ラーメンが食べたい」とか、そういうことであれば、ラクだしあまり問題は起きないよね。

ところが、自分の考えを、例えば社会のことや人生のことについて言おうとすると、問題が起きることがある。

自分の生活のことを書いたりするのは、他人の目に自分をさらすことになる。

すると「こうしたほうがいい」とか、評価されたり、同情されたり、説教されたり、批判されることもある。ときに面白くないし、気が滅入る。

だから、多くの人は自分のことは書かないんだろうな。

私の場合は、その辺は、もう20年も30年も書いてきて慣れている。

そもそも自分のことを書かないことには文章として力が出ないので、自分の考え、自分の体験を書くようにしている。だからこそ、長期間書き続けられたとも言える。

それでも投稿する時、ちょっと迷いがある。

AIが出現して、書いた文章をAI 読んでもらい感想をもらう。テキスト読み込ませれば1分で感想がでてくる、しかも的確だ。

そのことで足りない部分に気がついたり、自信を得て投稿するようになった。

AI に「背中を押してもらう」というわけだ。