過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

山里で暮らしの高齢の達人たち。そのオムニバス。

今年の秋〜来年あたりから、コロナ禍を受けての大不況。倒産、失業が相次ぎ、自殺する人も増えてくる。
不安でいっぱいの世になる。せまりくる不安。逃げられない。恐怖の時代が、もうそこに来ている。

生計の心配。健康の不安。ひたひたと実感する老化。
なんとか健康で食いつなげていけばそれでいいんだけど、さあどうなるか。

逃げるところもない。他からの救済もきっとない。
いまここの暮らしにしっかりと自分をつなぐ。自分という存在を安心の船とする。島とする。大地とする。それしかない。

それには、どうしたらいいか。
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いま本は売れない時代だけど、そうした時代背景の中で、売れていく本というものを考えている。

価値観は大転換していく。いまある暮らしに満ち足りる。清貧の道こそがすばらしいというあり方。脱成長、脱資本主義の方向がある。その道を歩んでいる人を、紹介していくという本作りもある。

より利潤を上げて成功するぞ!という資本主義的な本も、まだまだ売れるとは思うが。
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たとえば、次のような本。

『74歳、ないのはお金だけ。あとは全部揃っている』
牧師ミツコ著 すばる舎刊。じつはまだ、読んではいない。

本のコピー:
すっと伸びた背筋ではつらつとし、いつも明るい笑顔のミツコさん。牧師の夫と共に40年以上教会を運営。その傍ら娘4人を育て上げる。長年闘病してきた夫を2016年に見送る。その後は住まいを引き払い、単身公営住宅に。

日々のやりくりは年金と、週3回のシルバー派遣の収入の数万円で「十分」。人生は考え方次第。あるものに感謝して。栄養のある食事と運動で健康を維持すれば、医療費もかからない。お金がないからこそ、一輪の花を買えたときの喜びが増す。空が晴れただけで幸せ。すでに十分与えられている…。ミツコさんの生き方は、今の時代の希望となる。自宅の写真も入れながら、清貧かつ豊かな生活をのぞく。

目次:
第1章 74歳、ひとり暮らしに満足しています
第2章 月7万円で十分に暮らせています
第3章 寝たきり・認知症を遠ざけるための健康管理
第4章 「働く」ことが日々の張り合い、元気の源に
第5章 日常生活のひとつひとつを大切に
第6章 くよくよ悩まずに生きるコツ
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山里で暮らしの高齢の達人たち。そのオムニバス(いくつかの独立したストーリーを並べて、全体で一つの作品にしたもの)の本作りは、よいのではないか。

この編集者から、そんな相談を受けている。今週ZOOMで打ち合わせ。

なんだかお寺みたいになってきたよ

「もう人生が長くないもんだから、死ぬまでにこの歌をハーモニカで吹けるようになりたい。教えてほしい」。

突然来られた本日のお客さん。難しい課題を持ってこられたよ。
80過ぎの男性で耳がかなり遠い。ほとんど筆談。

吹きたいというのは「旅の夜風」。映画の「愛染かつら」の主題曲で、「花も嵐も踏み越えて 行くは男の生きる道」という歌だ。

耳が聞こえれば、話ができるんだけど、それが難しい。筆談だ。
譜面を印刷して渡す。
譜面は読めないというので、ドレミとカタカナで振ると、「それだとわからないので、番号を振ってほしい」という。
1.2.3とハーモニカの番号をふる。鍵盤ハーモニカに、ドレミと番号を振って、教えたけれど、これまた意思疎通が難しい。

歌と仏教に関心がとてもある。来られるとき、仏前に参拝したいという。「般若心経をお願いします」というので、一緒によむ。お布施もおいていかれた。なんだかお寺みたいになってきたよ。

あかりも隣で、石をカチカチ、カチカチ

左近さんが石の地蔵を彫りに来てくれた。あかりも隣で、石をカチカチ、カチカチ。

どんなに疲れても、ヘロヘロになっていても、石を彫り出すと元気になる、エネルギーをもらえると言っていた。

 

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「心の病気ってなんだろう?」

「心の病気ってなんだろう?」松本卓也著 平凡社
中学生向けに語りおろしで書かれたもので、よみやすい、わかりやすい、そして深い。統合失調症の患者のところだけ、すこし抜粋してみる。
松本さんが書いているように、「ここだったら人に振り回されずに安心していられる」、「ここなら自分らしくいられる」、「自分が主体的に何かをできる」という、自分のベースキャンプ(基地)にいるような感覚がたいせつと。
あかりの子育てでも、あかりが「自分のベースキャンプ(基地)にいるような感覚でいられるような」存在でありたい。しかしまあ、限りなくわがままになっていくことでもあるので、そのあたりが難しいところ。
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患者さんのご両親に聞くと、だいたい「小さいころは手のかからない子どもだった」と言います。「(中学、高校くらいの時期に)反抗期がなかった」と言うこともあります。
本人や家族の話を聞いていくと、患者さんは子どものころから自分がしたいことを自分の意志でやるというより、むしろまわりの人に合わせていたことがわかります。まわりの人がどう考えているか、まわりの人が今何をしてほしいのか、そういうことをすごく敏感に感じ取って、まわりに波長を合わせつづけていたという感じです。
「人に合わせる」と言うと、いいことのような気がしますが、別な言い方をすれば「振り回されている」ということです。「ここだったら人に振り回されずに安心していられる」、「ここなら自分らしくいられる」、「自分が主体的に何かをできる」という、自分のベースキャンプ(基地)にいるような感覚、言ってみれば「安全保障感」のようなものが、「統合失調症」の患者さんの幼少期には、薄いことがあるようです。
──安全保障感?
はい。自分のすべての基盤となるべースキャンプにいるときは、子どもは安心できますし、自分の好きなことやしたいことを主張したりできるものです。ところが、そのベースキャンプがしっかりしていないと、落ち着ける場所のない世界に放り出されたような状態になります。なので、まわりの人を一所懸命観察して、まわりに自分を合わせていくことによって、どうにか自分の生活を維持することになります。
船でたとえると、船は港に停まっているときはいかりを下ろしてロープ(もやい)で岸壁につなぎ止められています。つなぎ止められている限りは、そこから大きく動くことはないですから、船の上で安心して寝たり、飲み食いしたりできます。それがふつうの子ども時代だとしたら、「統合失調症」の患者さんの子ども時代は、岸壁につながれていないようなものです。いつもあらゆる方向から波が来て船も揺れるし、場合によっては転覆するかもしれない、という不安にさいなまれています。だから、ひとつひとつの波の様子を見ながら、波に自分が合わせていくことによって、自分の生活を維持しているのです。
──疲れそう。
大変ですよね。でも、お母さんやお父さんからすると、自分(親)が思っていることに子どもが合わせてくれるので、「育てやすかった」「反抗期がなかった」という印象になるわけです。
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今日も暮れゆく 異国の丘に

昭和歌謡」を毎日、20〜30曲くらいはリードしている。ギターで伴奏して歌う。利用者さんも歌う。歌詞は大きく拡大してダンボールに貼り付ける。もう200曲ほどになった。

歌っていると、その時代の空気感が伝わってくる。戦争の始まる頃の暮らしぶり、戦争中の思い、戦後の開放感など。
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「歌は世に連れ、世は歌につれ」というが、その時代に流行った歌に、空気感があらわれる。人々の思い、ねがい、欲、ためいきのようなものが。

歴史を学ぶのは、いまの知るためである。そしてこれから先、どういうふうな時代になっていくか。それを洞察する材料となる

歴史の記述を知る。とともに、人々の意識がどんなふうに流れていったのか。その時代の空気感を知るのが大切と思う。
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昨日、印刷したのは「異国の丘」。この歌はとってもいい。
歌詞もメロディーも、そして歌にまつわるストーリーが胸を打つ。

「異国の丘」は、シベリア抑留の兵士たちの間で歌われた曲だ。
作曲した吉田正は、無名の青年で、シベリアに抑留されていた。
この歌は兵士の間で広がっていった。

兵士たちは、帰り船で本土に帰るる。復員兵の1人が、NHKラジオの素人のど自慢で「俘虜の歌える」として歌った。胸を打つ歌なので、その作曲者は誰?ということになった。
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作曲した吉田正は、まだシベリアに抑留されていた。
数年して、シベリヤから帰国する。その曲は自分が作ったものだと吉田正が名乗り出て脚光を浴びる。それがきっかけとなり、吉田正は、大作曲家への道を歩む。

フランク永井有楽町で逢いましょう)、松尾和子(東京ナイト・クラブ、誰よりも君を愛す)、橋幸夫潮来笠)、吉永小百合(いつでも夢を)など、数々のヒット曲をつくった。

「異国の丘」
作詞:増田幸治、補作詞:佐伯孝夫
作曲:吉田正 唄:竹山逸郎/中村耕造

1 今日も暮れゆく 異国の丘に
  友よ辛かろ 切なかろ
  我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
  帰る日も来る 春が来る

2 今日も更けゆく 異国の丘に
  夢も寒かろ 冷たかろ
  泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
  望む日が来る 朝が来る

3 今日も昨日も 異国の丘に
  重い雪空 日が薄い
  倒れちゃならない 祖国の土に
  たどりつくまで その日まで

人生ってゲームか

あかりと将棋をやっている。将棋崩し、回り将棋、普通の将棋。
あかりは、勝ちと負けにこだわる性格なので、負けると泣いて悔しがる。

──あかりちゃん。これはゲームなんだからね。勝ちと負けはいつもあるんだよ。負けるときもあれば勝つときもあるし。次には勝つからね。

「ゲームってなに?」

──ゲームって、勝ちと負けがある。それって敵がいるんだね。敵がいないとゲームにならない。それと、ルールがあるんだよ。

相手と自分で決めた約束ごと、それがルールだよ。
ルールのとおりにやらないと、勝ちと負けが決まらない。
だから、ルールを覚えなくちゃね。

といつも、言う。だけど、幼稚園児がわかるには難しい。
あかりは、自分のルールを作ってしまう。
負けた時、「負けた人が勝ちってこと」というような(笑)

さて、ゲームの本質とは。
①敵がいること。障害があること。
②ルールがあること。
③はじまりとおわりがあること。
これらがないとゲームにならない。

人生って、すべてがゲームということもできるか。
①障害がいつもある。敵対するものがあらわれる。
②社会的存在だから、社会の決めごと・ルールに沿って生きる。
③人生は、生まれて(はじまり)、そして死ぬ(おわり)。

 

 

心の波動の伝播

あかりは幼稚園に行く。動物園。お母ちゃんもついていく。
朝から、わーいわーいと大はしゃぎ。心身で喜んではねているのは、まさに子どもだと思う。

そういう喜びの波動、エネルギーを、こちらももらえる。親も嬉しいということになる。
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喜びの人、はからいのない人、静寂な人、無欲な人、思いやりのある人に会うと、こちらもなんだか落ち着いて、うれしくなったりする。

いっぽうどよんと疲れた人、悲しみに満ちた人、憎しみや恨みを持った人に出会うと、疲れる。暗くなる。こちらもエネルギーが奪われるような気がする。なにもいわないでも波動が伝播してくるのだ。
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人間というのは、かなりの部分テレパシーで交流している。
人と人は、言語や態度や動作、表情、目の動きでメッセージを伝える。心の波動、あるいは想念でも伝わる、伝えている。

共振現象ともいえるし、やはり心の波動の伝播ともいえる。その伝播力はすごい。時空を超えて伝わる。

宗教的なシンボル、ブッダとかイエスとか、観音菩薩とか、そういうものも、人々の想念の集合的なものの拠点となったりする。そこにアクセスすると、ある種のエネルギー、波動と共振したりする。このあたりが、宗教実践の一つの捉え方かと思ったり。

夢の効用って

夢はいつも見ているのだろうが、覚えていない。よく眠れなかった朝などに見ることが多い。しかし、見るのは(覚えている)、あんまりいい夢ではない。

今朝方、すっきりしない夢を見た。どうなるんだろうという不安、人に媚びようとする自分、言いたいことが伝わらない焦り、秘密が暴露されて逃げ出したくなる自分、探しものがみつからない、高いところから堕ちる恐怖……など詰め合わせだった。
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夢には、固有名詞や特定の場所や人が出てくる。しかも、断片的だ。統一感はない。明瞭な事実はなく、境界線があいまい。イメージの渦に埋没している。それが刻々と動く。さらには、似たような夢が繰り返し再現されることもある。

夢をメモしたりイラストにして残すようにしている。ずっとあとになって、「ああ、そういうことだったか」と気がつくこともある。その時の不安や怖れなどを暗示しているようにも思う。
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人は、暮らしの中でイヤな感情体験を味わう。つらい、かなしい、さみしい、はずかしい、こわい……。それが、しこりとなって身体の奥深くに埋め込まれる。そして、それが基底部となって、生きている中でのなんらかの不安や恐れを生む。トラウマのようなかたちで、噴出するのかもしれない。

人に対する怒り、イライラ、憎悪、悲しみなどは、過去に処理していない感情が根っこにあるともいえる。その人そのものに対するネガティブ性は、じつは過去にずっと根付いていた、浸透していた感情の噴出でもある。その人は、それをフックした(釣り針が引っ掛けけるように)といえようか。
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そのあたりが、つねにつきまとうと、さっぱりして淡々と人とやりとりができなくなる。ヘタをするとますますネガティブな関係性を生み出して、トラウマを強めていく。

夢というのは、そうしたことがないように、ネガティブな感情を再現させて、すこしずつ緩和させる、解消させようとしているのかもしれない。それが夢の効用なのかもしれない。

 

 

あかりとのあそびは過激だ

あかりとのあそびは過激だ。
「闘いごっこしよう」
「よーし、やろう」

尾てい骨わりだぁ、ココナツクラッシュうぅぅ、脳天唐竹割りぃぃぃ、水平撃ちいぃぃ、ブレーンバスターあぁぁ、パイルドライバーあぁぁ、コブラツイストぉぉぉ、人間風車あぁぁ、スピニングトーホールドぉぉぉ。という連続プロレスワザだ。

「倒れたら負け」というので、大外刈いぃぃ、小内刈いぃぃで倒して、ワンツースリー。
あかりは、「まだまだ~、負けるもんかー」と続く。
こちらは、ヘトヘトだ。

家に帰るときには、
「おとうちゃん、ぶんなぐりごっこしながら帰ろう」と言って、殴りあいしながら帰る。
ときには、地獄ゲーム。石段の上を歩いて、そこを踏み外したら、地獄うぅぅぅ、というあそびだ。

まことに日々、体力がいる。子育ては若い時でないと、だめだぁ。しかも、血圧はいつも上が80〜90台という低燃費エンジンなわけで。いつまでもつかな。

 

ひとりで絵本を読み出したことはうれしい

ヨーガをしようとマットを敷いたら、あかりに奪われてしまった。「ねこのオーランド」という大きな絵本を持ってきた。寝っ転がって、声を出して読みはじめた。まだ、言葉の意味はつかんでないとおもう。ひとりですすんで読書できる子になれば、自分で学んでゆける。どんどんと興味を深めて広がっていく世界がある。

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こうして一日一日、なんとか生きられたということ

87歳のお二人の会話。ひとり暮らし。目が不自由、足腰がおぼつかない。

日々、体の自由は利かなくなる。親しい人は次々とこの世を去っていく。先のことを考えると、不安なことばかり。楽しいことはなにもない。することもない。近所の人も、おなじような年齢。どうやって、安楽に死んでいけるか。いつもその話になると言う。
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Aさん:これから先どうなるかと毎日が不安。いつまで、この施設に通えるか。明日のことはわからない。毎日、そんなことばかり考えている。

Bさん:わたしも、先のことが心配でならん。目が見えなくなってきている。よたよたしている。転んだらもうおしまい。

Aさん:もう十分生きたので、人生は余録と思っている。いつ死んでもいい。

Bさん:すんなりとあの世に行ければいいけど、そこが難しい。こればかりは、自分の思うようにならない。

Aさん:あなたは私と比べたら、ずいぶんとしっかりして、自分のことができる。うらやましい。

Bさん:そういうあなたは、近くに子どもがいるし、孫もいる。なにかあったらすぐにきてくれる。こちらは、ひとり娘が亡くなって、身寄りもないし。

まあとにかく、きょう一日、きょう一日。無事に生きていられたということで、一日に感謝するということで……ということで落ち着く。
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これは他人事にあらず。先のこととは思うが、明日は我が身。そうして、高齢社会の日本のありようのひとコマ。ましてや、結婚しない人が増えているわけで、ずっとひとり暮らしの人生。さらには、コロナ禍で人と人との交流が分断されていく。頼ろうにも頼るアテがない。

さて、どうするか。どうなるか。どう生きるか。
これだという解答はない。結論はない。

人は明日のことなど、わからない。つねに先のことはわからない。
しかし、こうして一日一日、なんとか生きられた。いま生きているという事実。どこに行かなくてもいい。なにをしなくてもいい。ただ、生きているという日常の現実がすごいこと。そこを深めるしかないのかなぁ。

南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も

南無妙法蓮華経南無阿弥陀仏も、となえて(称名、唱題)みれば、ほとんど変わらない。不動真言も、神道祝詞も、ヒンドゥーマントラも同様だ。それを信仰している人からは、「とんでない」といわれるだろうが。
実践してみれば、身体感覚においてかわらない。
本尊も、なんだっていい。阿弥陀如来像だの六字名号だの、日蓮の真筆漫荼羅だの、やれ大石寺板曼荼羅だの、ごちゃごちゃ論議しても難しく、複雑になるだけ。
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要は集中して実践できるかどうか。そこにかかっている。これは、自分でいろいろ実験、実践してみて、身体感覚から言っている。
強い信仰にある時、集中して実践できるのはたしかだ。イワシの頭も信心からは、そのとおり。ただ、イワシよりは漫荼羅がいいとか、太陽がいいとか、石磐がいいとか、いろいろある。
となえるのも、コカ・コーラより南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏のほうがありがたいだろう。応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん=金剛般若経の一節)というのもある。
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先日、高称(こうしょう)念仏の体験のことを書いたが、今回は、唱題行(南無妙法蓮華経)について書いている。
唱題行は、リズミカルでパワフル、エネルギーが充実する感覚はある。
こちらも、念仏同様、唱え方によって、いろいろ差異が出てくる。
自分が体験したなかでは、日蓮宗(大多喜の妙厳寺)のお寺で体験がひとつの節になっている。
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それは、夕方、暗くなった本堂で行われた。
はじめに、坐禅
そして、ゆっくりと南無妙法蓮華経と唱題が始まる。大太鼓が響く。
ゆっくりの唱題が、だんだん速くなっていく。そして、すごく速くなる。あらん限りの声で唱え続ける。
そうして、すこしずつゆっくり。とてもゆっくり唱えていく。
そして、また坐禅に入る。
この時、唱題前の坐禅と唱題後の坐禅に、明瞭な違いがあることがわかった。
唱題後の坐禅は、まことに頭がスッキリしている。清明感。雑念が飛んでいる、静まっている。それがありありと感じられた。
虫の声、風の音、木のそよぎ、本堂のミシミシいう音など、はっきりと聞こえた。これは、唱題前の坐禅のときには、聞こえていなかったのだ。
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唱題行は、集中瞑想である。声をだす丹田呼吸法でもある。身体を振動させることである。次から次へと湧き出てくる(噴出する)思考を沈めさせることになる。
思考は、無駄なエネルギーの漏洩でもあるので、これが静まることで、エネルギーが湧いてくる感じがある。心身まるごと全体を感じるようにもなる。
ということで、称名も唱題も真言もなんだっていい。声を出さずに、ただただ呼吸に意識を向けること、数息観もすばらしい。
それぞれのはからい、好き好き、縁のあるものに集中するのがいいと思っている。