過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「私」は脳に限局しているのではなく、身体全体に広がっている

「私」という自己を規定しているのは、脳の働きではない。自己と他者を明確に区別しているのは、免疫系である。免疫系の実体は臓器のようなパーツではなく、全身に散らばった免疫細胞のネットワーク。「私」は脳に限局しているのではなく、身体全体に広がっている。(福岡伸一:要旨)
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「私」とはなにか。「自分」というものの根拠はなにか。「心」というのはどこにあるのか。

デカルトの言う「我おもうゆえに我あり」の我。この場合、肉体と精神を分けて、精神の働き(良識)こそが我と述べている。

しかしだ、その「私」は理性であり、その底には無意識の私がある。これはフロイトが夢判断で分析してみせた。弟子のユングは人間には「集合無意識」があるとした。その「集合無意識」あるいは「原型」によって、人は動かされているのではないかと。
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「私」というものは、たとえば脳細胞にあるのか、あるいは心臓にあるのか。あるいは、それらをつつみこんだエーテル体みたいなものにあるのか。

脳細胞にあるとする。五感(眼、耳、鼻、舌、身、意)が外部の情報をキャッチ(感受)した時、それに対して認識し、指令を発するのが脳である。これが故障したり壊死したら、心身を統合できなくなったりする。「私」として認知できなくなるかもしれない。とすると、「私」は脳にあるのか。

いやいや、脳細胞は、心あるいは意識がはたらく単なるフィールド、あるいはツールとしてあるのかもしれない。
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自分という意識、思い、執着があって、それが身体と心をまとめているのかもしれない。そのまとめている本体が「私」であり、仏教がいうところの「我」と。

「我」というコンシャスネス(意識)が、無意識、深層心理、さらにはユングの言うような集合無意識からたちあらわれる。さらには仏教でいうところの「阿頼耶識」(アラーヤ)という根本浄識の拠点とアクセスしているのかもしれない。

死後、転生するとしたら、その本体は、この「我」という思い、執着、アイデンティティなのであろうか。
ともあれ、わからない。

『遺伝子はダメなあなたを愛してる』(福岡伸一著 朝日新聞社出版)を読んだ。なにかヒント、緒(いとぐち)になるようなものがあった。以下、一部引用する。
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イサム・ノグチの代表的な彫刻作品に「ヴォイド(void)」をテーマにしたものがあります。ヴォイドとは何もないこと、空間、あるいはうがたれた穴、というような意味です。作品は文字通り、大きな重い石をつないで作られた環が、ただただ丸く抜けた空間を示しているだけです。(中略)

花粉症とは「症」と名づけられているものの、これは私たちの身体が本来的に持っている能力の一形態なのです。
その能力とは自己と他者を見分け、他者を排除しようとする防衛能力です。それを行っているのが、免疫系です。

私たちはふつう「私」という自己を規定しているのは、脳の働きだと信じていますが、実は自己と他者を明確に区別しているのは、脳ではなく免疫系なのです。

ですから、もし誰かの脳を私に移植できたとしたら、私の身体はその脳に支配されるのではなく、むしろ私の免疫系が、移植された脳を他者として排除しようと猛攻撃するでしょう。

しかも免疫系の実体は臓器のようなパーツではなく、全身に散らばった免疫細胞のネットワークです。つまり「私」は脳に限局しているのではなく、身体全体に広がっているのです。
(中略)
自分の中にどんなに自分を探してもそれは空疎なものなのです。周囲の存在だけが自己を規定している。イサム・ノグチはこのことを知っていたのでした。