過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「死後のこと」「死後の転生」「無我」についての論及

「死後のこと」「死後の転生」「無我」についての論及。これは、スリランカの、ラーフラ長老の論文をもとに整理してみた。(『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ著 岩波文庫を参考にしている)しかし、まだよくわからない。

①存在とは、肉体的、心的なさまざまな力あるいはエネルギーのコンビネーションである。心と肉体をまとあげているものがある(心がそれをまとめているという見方もある)。ともあれ、「自分」としてまとめあげるエネルギーがある。あるいは、心身をまとめてあげているのは「自分」という意識であるとも言えるか。

②生と呼ぶものは、肉体的、心的エネルギーのコンビネーションである。これらは絶えず変化しており、連続する二つの瞬間において同一のままであることはない。毎瞬間、細胞が新陳代謝するように、生まれ、そして死ぬ。それを繰りかえしている。

③この生においても、各瞬間ごとに私たちは生まれて死んでいる。それでも私たちは継続する。自己とか魂といった永続的、不変的実体なしで、私たちが今この生を継続している。

④心と肉体をまとあげているエネルギー(すなわち自分)は、「もっと」「もっと」という渇望が有る。それは、意志、意図、欲望、存在し、継続し、増大しようという「渇望」である。「生存欲」といってもいい。

⑤死とは、「生存力」のなくなったことである。肉体的身体の全体的機能停止である。では、死によって身体が機能停止すると、心と肉体をまとあげていたエネルギーもなくなるのだろうか。

⑥「生存力」がなくなっても「生存欲」は続くというのが仏教の見方である。肉体的身体が機能しなくなっても、エネルギーは死なない。それは、別のかたちで現われ続け、再存在、再生を生み出す。かくして、死後の生命は輪廻転生していく。

⑦しかし仏教では「無我」を説く。自己あるいは魂といった永続的、不変的実体はないと説く(その証明は煩瑣なので省く)。自己あるいは魂といった永続的、不変的実体はないならば、転生はありえないのではないか。転生があるとしたら、死後に何が再び存在し、再び生まれるというのか。

⑧死後に再び存在し、再び生まれるのは、「私」という「生存欲」があるためである。「生存力」がなくなっても「生存欲」というエネルギーは残る。

⑨永続的、不変的実体は存在しないのは事実である。ある瞬間から次の瞬間に継続するものは何もない。それゆえに、ある生から次の生へと生まれかわる永続的、不変的なものは何もない。
⑩それは夜通し燃え続ける炎のようなものである。それは、夜を通して同じものでもなく、また別なものでもない。子供は六〇歳にまで成長する。六〇歳の大人は、六〇年前の子供と同じではないが、かといって別人でもない。

⑪同様に、ここで死に、別なところに生まれかわった人の場合、同一人でもなければ、別人でもない。それは、同じ連鎖の継続である。死と生の区別は、思考瞬間の違いだけである。
⑫この生の最後の思考瞬間が、いわゆる次の生の最初の思考瞬間を条件付ける。この生においても、ある思考瞬間が次の思考瞬間を条件付けると同じように。

ラーフラ長老は、5世紀のブッダゴーサの「清浄道論」をもとにしているのではないかと思うのだが。またそのあたりは、後日、探求していく。