過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「死々についての本を出そう」ということで出版社の社長とやりとり

「死後についての本を出そう」ということで出版社の社長とやりとり。朝、まとめてみたもののまだスッキリとは説明できない。もすこしわかりやすく、たとえばなしも入れて、と。だいたい自分がわかってないからね。

ブッダは、輪廻を否定したんですよね」

───否定したというよりも、前提としてまず人は「輪廻」するということがありますね。そのシステムをブッダは解明した。

「無明」によって、生存欲求によって、転生する。生死生死を繰り返していくのが人間。それが苦=ドゥッカある。

ブッダは、そのシステムを解明して、それを乗り越える道を示した。生死の輪廻を越えることが解脱であり、乗り越えた先の境地が涅槃。なのでアラハンに達した人は「もはや二度と生を受けないであろう」と言うわけです。

ヒンドゥーの伝統的な生命観は、輪廻転生ですね」

───はい。生死を無限に繰り返す。そして、よりよき転生先を得るためにヨーガ(たとえば、カルマヨーガ、ジャニヤーナヨーガ、バクティ・ヨーガ)などの行があります。

究極は、アートマン(個我)とブラーフマン(森羅万象)との合一(梵我一如)。そこにモクシャ(安らぎ、至福)があるというわけです。

ブッダは死後の世界を語らなかった、無記といわれていますが」

───それは、仏典から引用します。『マールンキャプタ経』というパーリ仏典です。

「宇宙が有限であるか無限であるかという問題にかかわらず、人生には病、老い、死、悲しみ、愁い、痛み、失望といった苦しみがある。私が教えているのは、この生におけるそうした苦しみの「消滅」である。」

「私は、宇宙が有限か無限か、といった問題は説明しなかった。マールンキャプッタよ、私がなぜ説明しなかったのかというと、それは無益であり、修行に関わる本質的問題ではなく、人生における苦しみの消滅に繋がらないからである。それゆえに私は説明しなかったのである」

エネルギー保存の法則的なもので、死後の説明は可能でしょうか?」

───たとえとしては可能だと思います。人は死ぬ際に「生存力」はなくなっても、「生存欲」というものが残る。

いわば心身をまとめる「わたし」というものがあり、もっと生きたい、もっと増大したい、存在し、再存在し、増大し、一層蓄積しようという意志あるいは渇仰が残る。それが、次の転生を生む。それはあたかも、エネルギー不滅の法則みたいなものですね。

「輪廻する〈わたし〉というものはなんでしょうね。」

───「わたし」というものは、たえず移ろい変化する肉体的、精神的エネルギーの結合と。

それらは五蘊(色(物質)、受(印象・感覚)、想(知覚・表象)、行(意志などの心作用)、識(心)の五つをいい、総じて有情の物質、精神の両面にわたる)から構成されている。

それらは無常なものであり、移ろいゆくものである。すなわち、ほんらいの「わたし」というものはない。それは妄想であるというわけです。

「わたしというものは無常、無我であると」

───ブッダはこう説きます。
「それはあたかも、すべてを流し去り、遠くまで流れゆく山間の急流のようなものである。流れが止むことは、一瞬、一時、一秒たりともない。流れ続けるだけである。人の命はこの山間の流れのようなものである。世界は絶えず流動し、無常である」

因果律に従って、一つのものが消滅し、それが次のものの生起を条件付ける。その過程で、変わらないものは何一つとしてない。そのなかで、持続的「自己」、「個人」、あるいは「私」と呼べるようなものは存在しないのである、と。

ここからは、主に『ブッダが説いたこと』ラーフラ長老 岩波文庫から引用します。

存在とは、肉体的、心的なさまざまな力あるいはエネルギーのコンビネーションに過ぎない。死とは、肉体的身体の全体的機能停止である。身体が機能停止すると、これらの力やエネルギーは完全に停まってしまうのだろうか。

仏教ではそう考えない。志、意図、欲望、存在し、継続し、増大しようという渇望は、すべての命、すべての存在、全宇宙を動かす途方もない力である。

これは、世界でもっとも大きな力であり、もっとも大きなエネルギーである。仏教は、この力が身体の機能停止すなわち死によって停まるとは考えない。それは、別のかたちで現われ続け、再存在、再生を生み出す。

「では、自己あるいは魂といった永続的、不変的実体あるいは実質がないとすれば、死後に何が再び存在し、再び生まれるのですか」

───私たちが生と呼ぶものは、肉体的、心的エネルギーのコンビネーション、五蘊のコンビネーションである。これらは絶えず変化しており、毎瞬間、生まれ、死ぬ。
「集合要素が生起し、朽ち、死ぬとき、あなたがたは生まれ、朽ち、死ぬ」

こうして、この今の生においても、各瞬間ごとに私たちは生まれて死んでいるが、それでも私たちは継続する。自己とか魂といった永続的、不変的実体なしで、私たちが今この生を継続しているということが理解できたなら、こうした力が、身体の機能が停止したあとも、あとに残された自己や魂なしで継続できる、ということが理解できるだろう。(『ブッダが説いたこと』ラーフラ長老 岩波文庫

「死後のエネルギーの継続について、もうすこし立ち入りたい」

───この肉体的身体が機能しなくなっても、それとともにエネルギーは死なない。それは何か別なかたち、姿をとって継続するが、それが再生と呼ばれる。(中略)この生の最後の思考瞬間が、いわゆる次の生の最初の思考瞬間を条件付ける。

この生においても、ある思考瞬間が次の思考瞬間を条件付ける。この存在しよう、生成しようという渇望がある限り、継続の輪(すなわち輪廻)は続く。それが止むのは、現実、真理、ニルヴァーナを見る叡智によって、その原動力である渇望が断たれるときである。(『ブッダが説いたこと』ラーフラ長老 岩波文庫

 

輪廻はない、転生はない。その理由として一つ。
転生したとしても、過去世の記憶はない。いまの自分が過去世の記憶が無いように。とすると、そこに「自己同一性」はなくなる。
なので、来世はあるとしても「ない」。
そういうロジックはあります。
そもあれ、いま生きているこの瞬間だけが人生。
ということで、毎瞬毎瞬を、しっかりと生きていくということになります。