過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

死んだらどこへ行くのか。そして、供養は届くのだろうか。

死んだらどこへ行くのか。死者に「供養」は届くのだろうか。

いろいろな考えがある。死んだら、なにもない。無だよ。いやいや、転生するんだ。次の生があるよ。いやいや、霊界(浄土、天国、幽界とか、別の次元の世界)にいくのだ。

けれども、これから体験してみないことには、わからない。なんともいえない。わかりっこない。

けれども、多くの人が故人や先祖を供養する。それは、「死んでも魂が存続する」という考えがベースにあるからだろう。

肉体をはなれると魂だけとなって、どこか別のところにいく。その魂に対して、なにか力を送るとか、いい方向に行ってもらいたいという思いから供養の儀式がある。

しかし、そのような儀式をしても、死者の魂に届くものなのだろうか。家族や子孫、あるいはお坊さんなどがお経をよんだり、礼拝したり、供物を捧げたりすることで、死んだ人の魂が救われるということが、あるのだろうか。

死んで肉体をもたないがゆえに、遺族の心や念がダイレクトに伝わるという考えもある。しかし、ほんとうだろうか。

過去世においてなしたカルマ(業=行動したこと、喋ったこと、思ったことのすべて)によって、いくべきところにいくだけに過ぎない。遺族や僧侶たちによって、供養されたりお経をいくらよんでも、自らがつくった業因にしたがって、いくべきところにいくのではなかろうか。

ブッダの教えにこういうものがある。

ここに湖がある。湖に大きな石を投げ込んだとしよう。石は底に沈む。人々が集まって、『石よ浮かべ、石よ浮かべ』と祈願したとする。そのとき、石は浮き上がってくるだろうか。

そんなことはない。生前、さんざんに悪を積み重ねた者が、死後、地獄に堕ちたとしよう。人々がいくら祈願をしようが、彼が天上界に生まれることはないのだよ。

こんどは油を湖に投じたとしよう。油が浮き上がってくる。人々「油よ沈め、油よ沈め」と祈願したとする。そのとき、油は沈むだろうか。

そんなことはない。生前に善行を積み重ねた者は、死後天上界に生まれ、地獄に堕ちることはない。(『南伝大蔵経』より)

たしかにそうなんだろうけど、しかし、なんとかならないだろうか。なんとかしてもらいたい。ということで、死者の魂に対しても効き目がありそうだということで、お坊さんによるお経か祈祷とか、いろいろな供養があるわけなんだろうけど。