過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「死後の魂」と「供養」について

「死後の魂」と「供養」について考えてみた。

①死後も「その人」が存続する(死霊とか魂ともいえるが、ここでは「その人」と表現する)。

②「その人」が、死後、その生前のカルマ(身・口・意の三業)によって苦楽を味わう。ときには、ものすごく苦しみ続ける。

③その影響は子孫に及ぶ。なので、「あっ、この苦しみは、この苦労は、先祖供養してないからじゃないだろうか」とみなさんが思う。

④なので、なんらかの「供養」が必要である。「その人」を供養することで、「その人」が救われる。そして、その人から発せられた、負のエネルギーから解放される。

⑤「供養」はいろいろある。思いを寄せる。偲ぶ。お坊さんよんで、お経をよんでもらう。墓参りする。法要する。立派なお墓をつくる。

⑥「その人」は、供養を受けたら、苦しみを逃れて楽になる。

⑦「その人」は感謝してくれて、子孫を守護してくれる。
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まあ、そんな文脈で、いまのお寺さんは継続されてきたのだと思う。そうして、新興宗教にしても、そういう文脈がある。

例外的には、創価学会などは、あんまり先祖供養はいわない。いまの生活に勝つこと、お題目を唱えて逆境をのりこえることを言う。お題目の功徳は、先祖にも通じるとは説いている。そのあたりは好感がもてる。
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さて、根本的な問題。

①死後「その人」がいるのかいないのか。だれもわからない。死者が生きて返った例は一つもないのだから(臨死体験は死ではないので除く)。

②死後「その人」がいないとしたら、供養することには、意味はない。

③その人」が生前、どんなカルマをつもうが、みんな等しく救われている、死んだら平穏で幸せだったら、供養の意味はない。

④死後「その人」がいたとしても、お経をよんでもらっても、まったく効果がない。伝わらない。響かない。関係ない。
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その意味で「供養」というのは、もしかして、遺族の自己満足でしかない。

しかしまあ、遺族の自己満足というのは、とても大切で、それは生きていくためのサポートになりうる。

なので、それなりの法要は必要なのかもしれない。わからない。