過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

子育てこそ先祖供養かも

「子育てこそ先祖供養かも」。
墓参りはほとんど行かない。そこに、先祖がいるとは思えない。
ただ、ときどきというか、日常的にお経とお題目や念仏、真言はよく唱える。
それは自分のエネルギーアップのためではある。心境を澄ますためである。けっして、先祖供養しているわけではない。また、唱えるのは宗派や宗教にこだわらない。
日本のお経、インドのお経、たまには近松門左衛門義太夫祝詞、いろいろだ。
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先祖はある。こうして生を受けるためには、無限の親、親、親が必要だ。
しかし、その先祖が、いまいるのかいないのかわからない。

いるとしたてら、どこにいるんだ。霊界? 浄土? 地獄?
もしもいたとしても、そもそもお経や念仏など、よろこぶとは思えない。

先祖が、どこかにいるとして、自分の思いが伝わるとしたら、
感謝の念、偲ぶ心だろう。
なによりわたしたちが幸せに暮らしている姿を喜ぶのだと思う。
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そして、死んだらおしまいか、というとこれが難しい。
まったくおしまい、かもしれない。
あるいは、また人間として生まれるのかもしれない。
あるいは、あの世とか霊界とか浄土にいつづけるのかもしれない。

そして、縁があるところにまた生まれてくる。
こないだの人生はこうだった、こんどはこういうことをしたい。
そのためには、こういう親で、こういう環境で育ちたい。
そう思って、自分で脚本を書いて願って生を受けるのかもしれない。
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わたしなどは、自分の母親は、娘のあかり(7つ)となって生まれてきたと思うところがある。
疲れて不自由な肉体を脱ぎ去って、新生の魂としてこの生まれてきた。いろいろと段取りまでして。それがあかりと思っている。

そしてまた、近しい人たちは、なんらかの自分の先祖ではないかと。
この人生は、生まれては死に生まれては死にを繰り返し、縁のある人と出会う。

なので、日々出会う家族、仲間、自分の子、それが先祖の転生した姿なのかもしれない。だから、死んでしまった人にお経を上げたり、墓参りもよいが、なにより日々出会う人と仲良く、大切に暮らしていくことこそが、先祖供養になるのかもしれない。
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親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。
そのゆえは、一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。(歎異抄