過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

死者、亡霊に対する恐れからきている

人を成立させているものは「魂魄」(こんぱく)である。魂は精神、心を支えるエネルギー。魄は肉体を支えるエネルギーといおうか。人が死ぬと魄は地に還る。そして魂は天に還る。これは古代中国の思想であるが、日本にも、もともとあった考え方だと思う。

しかし、天に還ることのできない魂がある。この世に執着、怨念を残した者たちは、魂がこの世に留まって徘徊する。それが、生者に対して、さまざまな悪さする。

それがおそろしい。見えない働きだから、なおさら恐ろしい。肉体を持たない怨念のかたまりだから、怖い。なにかに憑依(ひょうい)したり、なにか別のものに形を変えて、襲ってきそうで怖い。

だから、きちんとお祭をして、鎮魂しなくてはならぬ。亡者は成仏してもらわないと困る。

「死穢」(しえ)ということばがある。穢(けが)れ=気枯れ、だと思う。はつらつとした生の息吹をそこなうもの。はてしない闇のエネルギー、そんなイメージがある。死の穢れが伝染するとこまるのだ。

そのために鎮魂、あるいは封印しておこうというのが、葬儀であり供養の役目ということもできようか。

死者、亡霊に対する恐れからきているわけで、そのためには、それに打ち勝つほどの呪術性、神秘性がもとめられる。

そこで、僧侶による読経(どっきょう)に意味がある。お経は、意味は関係ない。響きの神秘性、呪術性がたいせつ。聞いていて意味がわからないほうがいい。そうして、導師は一般人とちがう異形(いぎょう)が望ましい。頭を剃り袈裟を着ているといい。頭髪があり普通の人の衣装だと、呪術性が弱いように思われてしまう。

そんなふうに思う。しかし、お経をよんだり礼拝したり、戒名をつけたり、儀式を行うことで、ほんとうに鎮魂や供養が可能なのかどうか。そこは、これからみていきたいところ。