故人の供養に際して、「魂を抜いてもらう」「魂を入れてもらう」という言い方がある。たとえば、仏壇とか位牌とかお墓とか、仏像などに使う。
しかし「魂」ってなんだ。よくわからない。
魂というものが、そこに入っているのか、いないのか。
「魂を抜く」とは、なんだろう。霊的なエネルギーがそこに付着していたり、依代(よりしろ)にしているので、それを取り払うことなのか。
「魂を入れる」というのは、霊的なエネルギーが入ってくれるようにすることなのか。そもそも、そんな「魂」というのが、あるのかないのか。
「魂」があったとして、そういうものに付着したり、依代にしたり、憑依したりするものだろうか。そして、「魂を入れる」とか「抜くとか」そういうことか可能なんだろうか。よくわからない。
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こうした行為は、お坊さんに頼むことが多い(浄土真宗はちがうが)。
お坊さん自身に「魂を入れたり、魂を抜いたりするような霊的な力」があるのだろうか。いるかも知れないが、大方はいない。
まあ、過去の歴史で、「そういうものだ」としてやってきたわけだろう。なにか「効き目ろがあるとしてとらえられてきた。
日本の仏教の受容自体が、「効き目」をメインにしてきた。いちばん大きな効き目は、鎮護国家の期待であった。お坊さんのよむお経は、いわば呪文のようなもので、「効き目」があると思われてきた。
在家の人は、お坊さんにそうした力があると思って依頼するのだろうか。お坊さんは、魂を入れたり抜いたりする力が「自分にある」「お経にある」と思って引き受けるのだろうか。
まあ、両者ともに、深く考えず「そうしたものだ」という風習でやっているのかもしれない。
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インドの友人に聞いた。そうしたことは、自分で儀式をするのが基本だと言う。たとえば、マントラを108回唱えたり、礼拝したりする。ヒンドゥー教は、そうした儀式に使うマントラ、礼拝の仕方など、伝統的なやり方が紀元前から伝承されてきている。
日本では、故人の供養というと、引導を渡すとか、死者を成仏させるとか、先祖供養とか、お坊さんをよんで儀式することになる。
しかし、お坊さんが、できるものなのかどうか。お坊さん自身、できると思っているのか、どうか。
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日本は型の文化というのか、「かたちだけをやっておけば、それでいい」ということが多い。
肝心の心とか思いは、二の次になりやすい。そうしたかたちだけのために、多額の費用をかけたりする。費用をかけることで供養につながると思ったりする。なんだか、もったいない。
ほんらいは、自分が供養を行うことが本義だとおもうのだが。