過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

生かしてもらっている現実に対しての感謝の心こそが

競売物件を落札したのだが、その土地のゴミの片付けを開始した。そこの見晴らしは素敵だ。梅の花が咲いている、やがて桜、そして桃の花が咲くことだろう。清流・気田川の水音も聞こえる。
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まずは、落ち着く場所を作ろう。事務所の庇の下を片付けた。瞑想できるように椅子を置いた。しばし、そこで瞑想していた。
瞑想とは、ぼくにとっては、心を鎮めることでもあるし、活力をもたらす道でもある。そして、ここの土地の神々、あるいはエネルギー、見えない力とのやりとりでもある。
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しばし瞑想していると、風に乗って陰々滅々とした声が響いてきた。ん?耳を澄ますと、ギャーテーギャーテー・ハーラーギャーテーと聞こえる。この言葉は『般若心経』の末尾にある呪文だ(渡ろう、渡ろう。彼岸に渡ろう、の意)。ちかくの公民館で葬式をやっているのであろう。
こうして響いてくる「お経」を聞いていると、日本の仏教というのは、生きるためのものではなく、死者のためのもの。まさに葬式仏教そのものという感がした。「お経」というものが、生きている人のための教えとは、思えわれない。死者を供養するための響きとして、感じられる。
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しかし、「死者のためのお経」というものは、この世に一つとしてないのだ。父母や先祖を敬えというものは、あるかもしれないが(「六方礼経」「シンガーラ経」など)。それは、あくまで生きている人に対しての教えである。
この世の悩み、苦しみ、迷いからどのようにしたら脱却できるのか、それを説いたのが「お経」である。けれども、日本仏教において「お経」とは、死者の供養のためによまれる呪文、鎮魂の響きとなっている。
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死者の鎮魂、先祖の供養はたいせつなこと。そして、いま生きている日々、生かしてもらっているような現実に対しての感謝の心こそが、先祖供養につながり、生きる力につながると思われた。