過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

『法華経』ってなんだ? というテーマで「いちりん楽座」を開催

法華経』ってなんだ? というテーマで「いちりん楽座」を開催した。
若本大作さんが、これまでの伝統的な本門迹門という分け方ではなく、『法華経』の説法の対比構造に着目して分析整理した。
伝統教学の枠組みを突破した自分なりの見方であり、こうした分類法はとてもわかりやすく、新鮮な切り口であった。
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あとは自由なカタライ。以下ランダムに。
「仏」とか「成仏」というのが、その実態はなにか。達成できるものなのか。
法華経』でたくさんの記別(仏になるという約束)をブッダから与えられても、何万年も何十万年も生死を繰り返して成仏するという。
その間「私」というアイデンティティをもって修行するのだろうか。
智慧第一の舎利弗にしても、「汝未来世に於て、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し菩薩所行の道を具足して、当に作仏することを得べし」と述べられる。無量無辺不可思議劫というのは、天文学的な時間だよ。
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しかし「私」というしても意識を持っていくら修行したとしても、成仏きるはずがないではないか。「私」そのものが解放・脱落されなければ、成仏はないのではないか。逆に言えば「私」そのものが脱落したら、今生で成仏は可能とは言えないか。真宗の「妙好人」のような生き方はどうなのか。
「私と他」を分けるものはなにか。脳か、心臓か、あるいは免疫系か。
神智学で言うところのアストラル体、コーザル体のような考え方はどうか。スウェーデンボルグの言う霊界の構造について。
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法華経』のエッセンスは、南無妙法蓮華経日蓮は言うが、それはどうしてか。
そして、それを唱えるとどういう効果があるのか。現実の引き寄せ力、イマジネーション、モチベーション、呼吸法による心身の活性との関係。
他のマントラとはどう違うのか。
この世界がどのように閉塞的になっていって、いかに管理されていっているのかの事例。宗教はそれをどう超えられるのか。むしろ人民支配のためのシステムとして作用するのか。
今の暮らしをどうしたらいいのか。これからどうなるのか。
そして、やがて訪れる死をどうとらえるか。「死」とはなにか。
ということで、次回は5/3(金)14時から、13分間の臨死体験した長澤さんをゲスト「いちりん楽座」を開催する。
昨日のカタリバのデータです。
以下をクリックしたら聴けます。6時間くらい語り合っています

asj-herx-onx (2024-04-28 14:03 GMT+9) - Google ドライブ