過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

次のテーマは、「業と供養」いちりん楽座

藤本晃さんをゲストに「いちりん楽座」を5月25日に開催。「ブッダの教えとその伝承」というテーマで、なかなか好評であった。
で、次回もまたお願いすることにした。
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次のテーマは、「業と供養」。
業(カルマ)とは、身口意の三業。行ったこと、言ったこと、思ったこと、意図したこと。それが因となって果を結ぶ。因は自らがつくり、縁が起き、そして果が起きる。それは自らがつくり自らが得る。自業自得。それが原始仏教の基本だと思う。

いっぽう「供養」(プージャ)というのは、仏、菩薩、諸天などに香、華、燈明、飲食などの供物を捧げること。そのことで、彼ら(諸仏、諸天)の力をいただいて、心の平安、現世利益をいただくことができる。そうした考えがある。

あるいは、「回向」(えこう)という考えもある。自らが修行を積んで得た善徳を亡者や他人に向けることで、供養と同等の効果があると考える。
「願わくは、この功徳を以って普く一切に及ぼし、われらと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを」(『法華経』「化城喩品」より)
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仏教は、基本的には、「自業自得」(じごうじとく)の教え。自分のカルマは自分で得る。であるならば、他人に対して、回向とか供養というのは、成り立つのだろうか。

とくに、死んだ者(まだ転生していない者、中有=霊界のようなところにいて、次の転生が決まっていない状態の者、あるいは死んで何年も何百年もたった人)に対して、回向とか供養は効き目があるのだろうか。

効き目があるとしたら、どのような供養、あるいは回向がよいのだろうか。
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とくに日本では、儒教の影響もあってか、先祖供養の考え方が根深い。先祖様を敬うことで、暮らしが守られる、と。

成仏していない(迷っている)先祖、餓鬼とか呪縛霊になって苦しんでいる先祖がいたとする。そういった先祖の心にこちらも共振して、自分の暮らしがうまくいっていない(貧、病、争)と考える人もいる。

供養することで、いまの暮らしの悩みや苦しみがなくなるという考え方も強くある。
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このあたりを原始仏教の見方と、ヒンドゥーのとらえかた、そして実際的なみかた、体験などを通して考えてみたい。