過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

亡くなった人への供養 スマナサーラ長老の話

きょう88歳のTさんを本作り(布絵)の件でお会いして、空を見上げながら、「そろそろ死も近いわねえ」と。「死んだらどこに行くのかねえ」「さあ、どこにいくんでしょう」という話をしたばかり。
お盆ということで、亡くなった人への供養ということでかつて取材したテーラワーダ仏教スマナサーラ長老の話。
痛みと死、死後の世界、そして供養について、出版の企画をしているところ。
──先祖供養ということは、どう考えたらいいですか。
ひとは誰でも、先祖に感謝の気持ちをもっているでしょう。テーラワーダの文化でも、同様です。先祖供養とは、お墓まいりすることじゃないんです。盆踊りをやっても先祖になにも通じません。一年に一度死んだ人がこの世に下りてきて、食べ物を奉納するというのは仏教的な考えではありません。
たいせつなことは、回向することなんです。自らの善行功徳を向けることです。先祖があればこそ、わたしというものが生まれたのです。ですから、お世話になりました、と回向するんです。
わたしたちは、朝晩、いつでも供養するんです。先祖供養とは特別な行事じゃないんです。お経をよむとき、かならず先祖供養が入っているのです。
──なにしろたくさん先祖がいますよね。なかには苦しんでいる先祖がいるかもしれません。
餓鬼道のような苦しみの世界にいる先祖もいるんですね。餓鬼道は、まったくなんの食事ももらえない、牢獄のような世界なんです。飢えて苦しいのです。すでに死んでいるのだから、飢えの苦しみはつづきます。
そういう存在は、ものすごくたくさんいるのです。恨みや憎しみがあって、執着が強いとそういう世界にいきます。そして、その世界から抜けられなくなってしまうんです。
──そんな先祖には、どうしたらいいんでしょうか。
彼らは供養をもらわないと、苦しみの世界から抜けられないんです。供養を受けられるならば、餓鬼道から救われることがあります。
この餓鬼道という刑務所は、「差し入れ」しか、受け入れてないんです。その差し入れは、は子孫しかだめなんです。そこで、子孫が回向することになります。
──たくさんいる先祖に、どのように供養したらいいかということですが。
問題は、「先祖というのは誰か」ということです。いまわたしたちは人間でいるんだから、わたしたちの親戚が先祖ですね。いまの自分の〈いのち〉を形成させて育ててくれたわけです。
無限に繰り返す輪廻の中で、わたしたちには、数えきれないほどの先祖がいます。今世でもたくさんの親戚がいます。だから無数の生命が、差し入れが必要な状態で待ち構えているといってもいいでしょう。
どうして親戚から供養を受けるのかというと、そこには気持ち的なつながりが深いからなんです。しかし、気持ち的につながりがなくても、回向は向けられるんです。
仏教では、供養を受けるひとがいれば、誰でもいいんだから幸福になってください、というふうに考えるのです。
だから、生きとし生けるものに回向するんです。すべての生命に回向するんです。
回向された生命が、それを受けるか受けないかは、あまり気にしません。誰でもいいんだから、功徳をとってくださいと回向するんです。また、そのことで、わたしたちは功徳を積むことになるのです。