過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

恐山の住職の南直哉さんと、森のイスキアの佐藤初女さんの本作りに青森に

ライターの森竹さんが、初期仏教を発刊し続けたサンガの島影社長の墓参りに行ってきたと言うので、いろいろ思い出した。

これは15年前の8月6日に、島影さんと一緒にでかけた青森の旅のこと。

恐山の住職の南直哉(みなみじきさい)さんと、森のイスキアの佐藤初女さんの本作りの企画のためであった。

ま、ふたりとも企画は通らず無駄足であったが、青森の旅は楽しめた。

  ▽

恐山は曹洞宗の寺。住職が論客の南直哉さん。訪ねると、初対面なのにぼくの顔を見て「ああ、出版企画持ってきたんだな」とすぐにわかったといっていた。禅的に言うと、その時点で、「無」(なし)であった。

恐山に泊まる。境内に温泉。深夜ひとりで広々とした温泉に入っていた。なにしろ恐山だ。しかし、なんとも心地よい時間であった。

翌朝は、賽の河原から白砂の湖まで散策。カラスたちがたくさんいる。雑草はあちこちで縛られている。幼くして亡くなった子どもたちが「一つ積んでは父母に」と、石を積み上げて両親へ報恩をしようとする。そこへ非情な鬼がやってきて、積み上げた石を壊してしまう。

そのため、鬼がやって来るのを少しでも遅くさせよう、鬼が転ぶようにと、遺族たちが草を結ぶのだ。

  ▽
朝のお勤めは6時半から。南住職がお経を読み上げる。般若心経と吉祥陀羅尼、地蔵の真言。それから、つぎの本堂でもお勤め。『法華経』の自我偈。

お堂には、遺影やら花嫁人形などが置かれている。若くして亡くなった故人のための白無垢の花嫁人形がずらりと並んでいる。

すこしぎょっとする。だが、それほど重たい空気はなかった。ちなみに、靖国神社遊就館に行くと、最後のブースには、特攻隊の遺影と日記。そして、白無垢の花嫁人形がずらり。そのときには、ああ------と息を呑んだことを覚えている。

  ▽
朝食を済ませて、公民館に着いたのは、11時過ぎ。

森のイスキアは行かずに、公民館でのおむすびづくりがはじまっていた。佐藤初女さんが、ちょうどおむすびをにぎるところであった。まことにていねいにていねいにつくられていた。やさしく、宝物のようにしておむすびをつくられる。

写真を撮らせてもらうが、どやどやと4人もやってきて、いきなり写真を撮ったものだから、主催者から「あななたちはいったいなんですか、ことわりもなく。取材の申し込みは受けていない、聞いていない」と叱られた。全くそのとおりで反省しきり。

その後、鰺ヶ沢の自然牧場で一緒に食事。初女さんは、もうまったく耳が聴こえないようになっており、話しかけても、悲しそうな顔をされるばかり。

シスターの鈴木秀子さんとの対談の企画を考えていたのだが、無理とわかった。マネージしている人に聞くと、初女さんは「もう対話派は無理。それにことばの人との話はあんまりノリ気がないようです」ということであった。ことばじゃなくて、からだで示すのが初女さんだ。ちなみに「森のイスキア」という名前を提案したのは、鈴木秀子さんであった。

別れるときに挨拶したが、またもつらそうな悲しそうなお顔をされていた。笑顔は一つもなかったな。初女さんは、はるばるきたのに聞こえないのは残念。話ができなくてすみませんと、心から悲しんでおられたのだろう。丁寧に人と向き合い方だから、ますますつらそうな思いが伝わってきた。その顔を思い出す。
  ▽
青森で「ねぶた」を見る。太鼓の叩き方がほんとうに本気。すごい。らっせーらっせーと跳ねるのがいい。とくに女の子たちが跳ねるのがなんとも可愛い。その日は、島影社長の家に泊まらせてもらう。

「池谷さんも山奥にこもっていないで、もっと尖った部分で勝負をかけてもらいたい」と島影さん。そうだなあ、また編集再開しようかなとすこし思った。

  ▽
ところが、3年前、2020年7月21日。島影さんは、ZOOMで会議中に突然の死去。で、後継の奥さんは、事業経営は負担が大きすぎるとして、サンガは、自己破産した。

社員たちは、クラウドファンディングで再建。いまも活動している。ぼくはいま、「Samgha Japan(サンガジャパン)」に村上光照さんの原稿を書かせてもらっているところだ。村上光照さんも昨年、亡くなった。

関わっている人が死んでいく。そうして、自分も死んでいく。まことに、人生はかくの如し。それはそれで、そうした法則。たんたんと生きるのみ。やれることをしっかりやっていくだけ。