過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

戸田城聖と池田大作は、板曼荼羅をホンモノと信じていたのだろうか

戸田城聖池田大作は、板曼荼羅をホンモノと信じていたのだろうか

Mさんとの対話④

───創価学会としては、裁判はどういうふうに決着をつけたかったんでしょうね。長引けば長引くほど、板曼荼羅がニセモノらしいということがゴシップになっていくのは困るわけで。

「北條さん(池田の次の第4代会長)と秋谷さん(面に次の第5代会長)は、裁判で決着つけずに「和解したらどうか」という意見だったようだ。

ところが、山友(創価の顧問弁護士 山崎正友:謀略部隊を率いる)が、後々のためにしっかりと決着を付けなくてはいけないと、全体の訴訟指導をした。あとで、山友から直接聞いた」

───なるほど、そして、最終的には最高裁で「司法になじまないとして」いわば門前払いとなったわけですね。
まあ、しかし、10年に渡る裁判闘争で、板曼荼羅そのものに対する疑惑はひろくしれわたることになったので、Mさんとしては成功だったといえるかも。
  ▽
───ところで、戸田城聖池田大作氏は、板曼荼羅をホンモノと信じていたんでしょうかね。どう思いますか?

「戸田さんは、本当に信仰があったのかどうか。宗教ビジネスで板本尊をお宝として広めたのだと思う」

───戸田さんは、宗教ビジネスの天才と思います。戸田さんが弘安二年の板曼荼羅を本尊としてお宝にした背景は、どういうことにありますか?

板曼荼羅は、富士大石寺の御影堂(みえいどう)にある御影(御影:祖師の人形)の背後にあった。はじめは板曼荼羅のみ、御影はなかった。あとから御影ができた。

本来の拝み方は、十界曼荼羅の前に『法華経』十巻を置くかたちだった。それが、公開されるになると、板曼荼羅のニセモノだとバレるので、御宝蔵に移した。御宝蔵というものの、いわば倉庫である。

その御宝蔵に戸田城聖がいって、そこに収納されているいくつかの板曼荼羅を見た。その曰く因縁を聞いているうちに、弘安二年に図顕されたということになっている板曼荼羅をみた。〝これはいける〟と踏んで、三大秘法の大御本尊とした布教していくことになる。

このあたりは、戸田のカリスマ的な話術、大確信みたいなもので信者が増えていく。そして、信仰の結果が実証として示されていく。そしてまた、信徒が増える。あれあれという間に、ゼロから75万世帯となった。」

───戸田さんは、当時の戸田はまだ50代ですから、その才覚と組織力たるややすごいことです。いわば香具師(やし)のような才能もあった。信徒はすぐに騙されとしまう。板曼荼羅の類で、〝お肉牙〟(にくげ)というものもあったんですね。

お肉牙とは、戸田城聖の講演録によれば、日蓮が弟子の日興に譲ったとされるお肉牙(にくげ:奥歯)みたいなもの。800年も経ているのに、腐らずに生きている。しかも、脈打っている。肉が次第に盛り上がって、広宣流布の暁には、歯をすべて覆い尽くすと信徒に話している。「末代に言い伝えよ」と話している。まあ、板曼荼羅とは、そうしたお肉牙のレベルなのかもしれませんね。
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───ところで、池田大作さんは、そもそも板曼荼羅を信じていたんでしょうかね。

池田大作は、最初の頃は、信仰していたかもしれないけれど、〝正本堂〟を建立したときとに、ニセモノと気がついたんだと思う。落慶する際に、板曼荼羅を御法蔵から遷座した。

その際、赤澤朝陽に写真を撮らせたり、朽ちている部分を修復したりした。間近に測定したり観察してみると、〝ああ、これはどうみても後世の偽作だ〟と気がついたのだと思う。

けれども、真実の本尊だと会員に伝えて、355億円もの寄付を募ったわけだから、今更ニセモノだとは言えない」

───はじめは信じていたけれど、あとでニセモノと気がついた。でも、もう会員あいだでは、「板曼荼羅が絶対だ」というふうになっていた。そして、本門の戒壇たる「正本堂」もできた。いまさらニセものであったとは言えないわけですね。(続く)