過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

戒壇の本尊(板曼荼羅)の真偽についてMさんに聞いた

「おれも長くないから、色々聞いておいてくれ。あなたなら、それらを整理して文章にして残してくれると思うから」
───Mさんが、当時の日蓮正宗創価学会の究極の本尊、板曼荼羅に疑いを抱いたのは、なにが〝きっかけ〟だったんですか?
「それはね。矢島周平に出会ってからなんだ」
───矢島周平というと、元創価学会の理事長ですよね。牧口常三郎戸田城聖の頃の創価学会の最高幹部。
昭和18年に初代会長牧口常三郎が逮捕された際、矢島氏も逮捕・勾留。出獄してから、昭和24年に『大百蓮華』の初代編集長。戸田城聖が理事長を辞任した際、後任の理事長に就任している。
その矢島氏に、どのような経緯で出会ったわけですか?
「矢島周平は、創価をやめてから日蓮正宗の僧侶になったんだよ。埼玉の大宮の本因寺の住職になったんだよ。たまたま、そのお寺の前の仏壇屋で雑談していたら、そのことを聞いた」
───ほうほう。ぼくも大宮に住んでいたので、そのお寺も仏壇屋も知っていますよ。
「で、いろいろ話をしているとき、板曼荼羅はじつは大石寺の御影堂(みえいどう)にかかっていた。それがある時、宝蔵におさめられた。戸田城聖がそれを見つけて、〝これは?〟と聞くと、〝曰く因縁のあるもので〟ということだった。
その時、戸田さんは「これをもって本尊としよう」と思ったようだ。大石寺としては、「まあ創価学会という講中の本尊としたなら、問題なかろう」という程度だったようだ。それが、折伏大行進時代で、あれあれという間に100万人規模に信徒が増えていった。いまや1200万人という。
───大石寺としてもびっくりですよね。地方の小さな寺が全国展開。そして、信徒とお金がどんとん入ってくる。いまさら、「板曼荼羅は後世の偽作」なんて言えない。
「そうだと思うよ。それで、矢島周平が言うには、〝じつは日蓮正宗には日蓮聖人のあらわした本尊はひとつしかない。それは、保田妙本寺にあるんだ〟という」
───はい。保田妙本寺には、「万年救護」の本尊がありますね。文永11年12月に身延の草庵であらわしたもの。もしも日蓮の出世の本懐というのなら、そちらのほうじゃないかというわけですね。
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ひさしぶりにMさんと話をした。もう80も後半になる。「そういえば元気かなあ」とひらめいたので電話したのだ。
彼は創価学会の本部職員であり、職員でいながら創価学会に反逆した。
かつて創価学会正本堂を建立するとき4日で355億(いまでいると5,000〜8,000億円くらいか)を集めた。
その正本堂に安置される戒壇の本尊(日蓮の図顕した曼荼羅を板に刻んだもの:通称「板曼荼羅」)が後世のニセモノと気づいたからである。歴史考証、書誌学などを学んでいくと、ニセモノというのは、容易にわかるのだが、当日の創価は熱烈な信仰集団。そんなことに疑いをもつ人はいない。
板曼荼羅こそが究極の真実であり、末法の人類を救うものであり、これを拝むことで自身の不幸の宿命を断つことができる。幸福になることができると強く信じられていた。いわば「幸福製造機」(二代会長の戸田城聖の言葉)として、信じられてきた。(創価日蓮正宗に破門されたから、拝めない。ゆえに、板曼荼羅については言及していない。むしろ偽作説に舵を切っている)
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その辺の経緯は複雑なので別稿にする。
私に関心があったのは、「Mさんが「なぜそのようなことに気づいたのかということであった。
───おたがいに年だから、いつ死ぬかわからない。生きているうちに色々聞いておこうと思ったんです。さきほど友人の日蓮宗のIさんに電話したら、「ちょうどいま葬式の準備している」と。そりゃ坊さんだから、葬式に忙しいだろうと思いきや「いや、おれの葬式だよ。いま女房と打ち合わせしているんだ。もうすぐ死にそうだからな。死ぬ前に還俗して、俗のまま死んでいくんだ」と言っていました。
「いかにも、Iさんらしいなぁ」
───大寺院に生まれて、お金も時間もある。それで、宗内で活躍したって意味がない。むしろ困っている海外の人を助けようとNGOをつくって活動してきた。なんとラオスに学校を123校も建てたと言いますよ。
そんな話をしていたら、「とみろでMさん、元気かねえ」というので、ひらめていて電話したんですよ。
「Iさんお父さんにはお世話になったなあ。もう100歳になるのかなあ。日蓮宗にこんな粋な人がいたのかと思ったよ。出会ったのは、創価学会板曼荼羅裁判していた時(最高裁まで争った)、全国の日蓮宗のお寺を行脚して、寄付を募ったときだったよ。ずいぶんと、いろいろなお寺を紹介してくれた」
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───Mさんは、かの巨大宗教団体と公然と裁判闘争して、批判する本を出し続けていったわけで、それはすごいことですよ。当時の創価学会はたいへんなものでしたからね。よくぞ、身の危険から逃れたものです。
「まあ、いろいろ妨害されたよ。盗聴されたり、床下にシロアリ撒かれたり、クルマは壊されるわ、猫の死体がぶら下がっていたとか、枚挙にいとまがない」
───それはそれは、ごくろうなことでした。まあ、そのおかげで、創価学会の洗脳枠から外れて、深く日蓮研究も進んだってわけで、よかったっていうことで。
「そうなんだよ。学ぶのは楽しいぞ。もっと若いときに「善知識」(真の仏道に導いてくれる人)に出会ったていたらなあ。まあ、こればかりは、過去世の縁もあるし、望んでも難しいこと。出会ったとしても、こちらの受け入れる素養がなくちゃ、通りすぎていくしね」
───まったくです。よき人との出会い、師匠との出会いは人生の最大のテーマです。
まあ、Mさんは、池田大作という人を師匠として本部職員になったので、そこが最大の失敗でしたが、それがまたあとから、日蓮創価学会という教団の探求になっていく。なにが幸いするかわかりませんね。
「そうなんだ。まったく」
───ぼくは、創価日蓮の法門の教義よりも、その人間のありよう、教団のありように興味があるんで。また、いろいろな経緯を教えてください。そのうち、縁があれば本にまとめていこうと思います。
(以下、続く)