過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

創価の人との論議

近頃、創価の人が来てくれる。わたし相手に折伏しようというのだから、骨が折れると思うけれど。まあそんな方だから、人柄は良い。病み上がりで咳をしながらの対話となる。

創価の人と論議をしていて、なにがおもしろくないかというと、答えがすべて用意されているからだ。
判で押したような答えばかり。これについては、こう、あれについてはこう。しかも、相手の答えは用意に想像できることばかり。
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自分たちの教え、教団、池田大作先生は偉大であり最高と思いこんでいるので、いくらつついても全く徒労となる。ありえないことだが大作氏が「自分の信仰は間違っていました」と述懐したとしても、学会はゆらぎはしないと思うほどだ。

一緒に探求してみようというスタンスがあればこそ対話は楽しい。価値がある。自分の「正しい」にしがみついていては、対話は消耗でしかない。
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とはいうものの、やってきたくれた縁なので、やりとりはすすむ。仏教あるいは法華経からいかに日蓮仏法が逸脱しているか、創価学会自身が、仏教あるいは法華経、あるいは日蓮から逸脱しているか。そして、大組織としての資金と権力と腐敗堕落、数々のゴシップも取り混ぜて伝えても、まったく相手は意に介さず。

まあそれでも「うん、もしかしてそうかもしない」「仏法って深くて面白そうだ、探求してみたい」と思う瞬間がやってきたら面白いとけれども、まあほとんど無理だろうな。

「信仰をやめよ、組織を離れよ」というのではない。「自分たちが正しいという教義の本体を探求したほうがいい」と言っている。

ひとつ探求の世界が起きると、次々と探求は深まって俄然、人生は面白くなる。まあ、そのかわり、組織に対する疑問、疑念が湧いてきて、本人には実存的な崩壊の危機にもなるけれど。
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やりとりしてみていろいろハンで押したパターンがある。

日蓮正宗(富士大石寺)こそが大謗法であり仏敵だ。かれらは創価学会からたくさん金を巻き上げて、自分たちだけがいい思いをして特権意識を振りかざして信徒を見下げてきた。

「自分たちは悪くない。悪いのはあいつらだ。あいつらがだましてきたのだ」ということになる。
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②池田先生は、人がいいものだから、身近な大幹部たちに騙されてきた。謀略部隊のトップ顧問弁護士の山崎正友、大作の代作グループーのリーダー原島嵩教学部長。組織の人気のあるリーダー福島源次郎など。そうした反逆の輩に騙されたり、真実を伝えられなかったりした。

これもまた、「悪いのはあいつらだ。あいつらがだましたのだ。池田先生は騙された」というパータン。学会のありようの特徴はここにある。

「自分たちがうかつだった。自分たちが悪かった。反省しなくちゃいけない」という姿勢を微塵にも見せない。
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③「本尊」こそが大切。これを間違えると不幸になる。
ここは信仰、教えの中核。「本尊」(いまは中世の日蓮正宗法主の著した十界曼荼羅のコピーを日々拝している)こそが究極。その本尊が正しいので、正しい生き方ができる。

じゃあ、その本尊が間違っていたら、自分が間違ってきた、創価学会が間違ってきたということになるがどうか。文証からも理屈からも書誌学からも攻撃しても、間違っていたと思うことは決してない。「池谷さんは信仰していないからわからない」ということ、そこは完全に思考停止している。
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④南無妙法蓮華経が最高だと法華経にある。
仏法の究極は『法華経』であり、その究極は南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経という大宇宙の本体と一体となることが人生の幸福だ。

しかし、『法華経』に「南無妙法蓮華経が最高だ」などと一つも書かれていない。『法華経』がひとつの神話であり、ブッダの説ではないという論議は外す。

また、無量義経に「四十余年年未顕真実」とある。これも、無量義経は中国政策の偽経の可能性ありという説も外す。

法華経』だけが真実というのであれば、無量義経に『法華経』が真実と書かれてなくちゃいけない。が一つもそれがない。また、無量義経のあとに『法華経』が説かれたという証拠もない。
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……などなど論議したのであった。どれ一つとして噛み合わないものであるが、こちらはこちらで頭の整理にはなったし、論議していく過程で、風邪で弱っていたが元気になったのであった。まあなにしろ13世紀の中世の論議である。

さてそんなことより、元気になったところで仕事しなくては。