過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

①本尊☓②真言☓③信仰☓④熟練度☓切迫度・必死さ=⑤結果 という公式

①本尊☓②真言☓③信仰☓④熟練度☓切迫度・必死さ=⑤結果
という公式を考えてみた。
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親鸞の主著は『教行信証』だが、信仰と実践と結果という点から見ると『教信行証』となるか。
教信行証とは、教えがあって信仰があって実践して結果が出る。

日蓮的に言うと、こうなるか。
教え(本尊は『法華経』)☓唱題行(南無妙法蓮華経)☓信仰の厚薄=結果

日蓮正宗創価は、本尊を間違えると、不幸になる。バチが当たる。地獄に行く。アタマが七つに割れる。そのように主張していた。いま創価は、その本尊を変えているのだが。

法然は、すべての人は救われるのだが、ただひたすら念仏を称えるほうがいいと。それも「できれば」である。それぞれの人の暮らし、境遇によって、それぞれ至心に称えなさいと。

親鸞の教えにあっては、「はじめから救われている」ということになる。証は救われているといことになる。
なので、本尊がどうの、念仏を称えるとか称えないとか関係ない。ただ、救われている、救われたいという必死さ、おまかせ、心のありようは問われるというところか。

密教的には、真言と信仰の有無、そして本尊かなぁ。
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①本尊によって差異はあるのか。
真言マントラ、南無妙法蓮華経南無阿弥陀仏、トホカミエミタメなど、いろいろ)によって差異はあるのか。
③信仰の有無、深度によって差異はあるのか。
④切迫度や必死さによって差異はあるのか。

私なりにいろいろ実践して感じるのは、こんな感じ。

①本尊は何でもいい。------縁があったものでいい。
真言も何でもいい。------縁があったものでいい。
③信仰はあったほうがいい。------まあそれも、縁があれば。
④熟練度はあったほうがいい。------まあそれも、縁があれば。
⑤切迫度・必死さはあったほうがいい。------それはとても大切。