過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ぼくは「なんだっていい」教なので、ほんとになんだっていい。

朝、利用者さんのお迎えに行く。ひとり暮らしの94歳の方は、生き方の基本に、日々の祈りがある。たんたんとして、一日も休まず、朝晩の勤行を行う。創価学会の会員だ。

そのためか、とても安定して穏やかだ。なにがあっても、動揺することがない。かといって、信仰を人に押しつけることも一切ない。

ぼくは、「さあ、お唱えしますよ」と一緒に題目を唱える。仏壇のスイッチを付ける、ゆっくりと扉が開く。安置されているマンダラ本尊があらわれる。

その本尊に向かって合掌し、ときに、法華経(自我偈=如来寿量品の一部)をよみ、南無妙法蓮華経と唱える。
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時間にして10分くらい。
94歳の方と唱えている時間が、なかなかいいのだ。
お題目のリズムが途切れない、安定してくる。
ごちゃごちゃした雑念が、次第に収まる。心が澄みきっていく。
なにをしたらいいのか、すこしずつ明確になっていく。

身体が充実してくる。すっきりしてくる。頭が整理されてくる。余計なものがとれて、全体的に柔らかい安定したオーラに包まれるようなところがある。
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どうしてそうなるか。
この唱題行は、祈り=声の響き。呼吸法でもある。
声に出していく、おんなじ真言マントラ=南無妙法蓮華経を声に出すというところがポイント。

また、集中できる本尊(学会の場合は、日蓮漫荼羅)があるのがいい。
仏壇があって、そこに落ち着いて座れるのがいい。いわば、ホームチャペル。わがやの祭壇であり、瞑想の場であり、祈りの場である。
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いつも書いているが、ぼくは「なんだっていい」教なので、ほんとになんだっていい。

もしも浄土真宗の方の家に行けば、お念仏、そして「正信偈」という親鸞のまとめたお経(詩)をよむ。天理教の家に行けば、お手振りの歌もうたう。真言宗であれば、不動真言をとなえる。

なにかを信ずるというのではない。ひとつの伝統的な宗教実践には、心身の変容、活性、心の安定をもたらすものがあるのだ。

それを、身体で実験して、楽しむということでもある。まあ、まじめに一筋に信仰している人にしたら「とんでもない」と思うかもしれないが。