過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

哲学は、モノローグではなくてダイアローグ

哲学は、モノローグではなくてダイアローグ。
ひとり語りではなくて、対話である。

対話によってお互いに思索が深まり新しい気づきが生まれていく。
プラトンの「ソクラテスとの対話」がその意味では、ひとつの原点。
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けれども対話をベースとしたギリシア哲学でも、プラトンの弟子のアリストテレスになると、もう対話世界じゃない。世界を細密、緻密に論じた体系となる。

そうして、それがキリスト教と結びついて(おもしろいことに、イスラム圏から伝播した。十字軍戦争によって)、強固なキリスト教神学体系に、スコラ哲学になっていく

やがて「哲学は神学の婢」(ancilla theologiae ) として、哲学は神学に奉仕し服従する侍女のようなものとなる。

それが、のちに、デカルトを経て、カントやヘーゲルそしてマルクスのような超難しいモノローグとなっていく。(デカルト方法序説、初期マルクスは別格に読みやすい)
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で、Facebookのよいところ。モノローグを提示すると、コメントがきて、やりとりが起きる。あるいは、自分が関わらなくても、そこがやりとりの場となっていく。そこがおもしろい。

やりとりによって思索が深まり新しい発見がある。なにより、得難い友人のネットワークが広がる。

ただ、教条主義というかイデオロギーに使われている人とは、対話が成り立たない。
信じていること、正しいと思いこんでいることの繰り返しとなって無限循環。
おもしろくない、疲れる。ただ、「なぜそういう思考回路になるのか」という観察と分析には役に立つ。