過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経

南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ、ナマンダブ)と南無妙法蓮華経(ナンミョーホーレンゲーキョー)という響きは、日本仏教の代表的な、マントラ真言、呪文、真実の言葉、響き)といってもいい。
「南無」とは、「南が無い」という意味ではなくて、namo/namaḥ(ナモー、ナマー、ナマハ)という古代インドの言葉を音写したものだ。
意味は、「おまかせします」「礼拝します」「帰依します」「こころから尊敬します」ということになる。
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南無阿弥陀仏というと、「阿弥陀」という仏さまに帰依し、おまかせします。南無妙法蓮華経というと、「妙法蓮華経」という教えに帰依し、おまかせします、ということになる。
南無阿弥陀仏は、すべて音写。「ナマハ・アミターヴァ(あるいは、アミターユス)」意味をとれば、「はかることのできない、いのちとひかりにおまかせします」、ということになるかな。
南無妙法蓮華経は、南無は音写、妙法蓮華経は意訳。全部が音写だと、ナマー(南無)サッダルマ(妙法)プンダリーカ(蓮華)スートラ(経)となる。
「白い蓮の花(プンダリーカ)のような清浄で妙なる(サット)教え(ダルマ)に帰依します」という意味となるか。
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鎌倉仏教において、信徒数、勢い、与えた影響性、強靭さという意味で代表的なものは、日蓮宗浄土真宗と思う。
ともに、題目、名号の頭に「南無」をおく。
日蓮においては、「南無妙法蓮華経」の七文字が礼拝の対象となる。「南無妙法蓮華経」とは、「妙法蓮華経」というお経に礼拝する、「妙法蓮華経」という教えに生きていきますという意味である。
「南無妙法蓮華経」の七文字こそが教えのエッセンス、究極的な本尊、礼拝の対象てせあるね。日蓮は、「末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)と述べた。他の経典も、法華経すらも意味をなさない。南無妙法蓮華経だけでいいというわけである。
そして日蓮は、南無妙法蓮華経を中心にした文字マンダラを本尊として信徒に下付している。
親鸞は、阿弥陀仏におまかせしたとき救われていると説く。他力の教えでる。南無阿弥陀仏の六字名号を本尊として信徒に下付している。後に真宗を大きく弘めた蓮如室町時代)にあっては、六字名号を本尊として盛んに信徒に下付している。
ちなみに、南無妙法蓮華経南無阿弥陀仏に南無(帰依)するわけだから、南無(帰依)に南無(帰依)ということになるか。
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インドに行くと、「ナマステー」と挨拶する。
「テー」は、「あなた」という意味だ。
あなたを礼拝します、心から尊敬しますというのが、インドの挨拶ということだ。
深い意味では「わが内なる神が、あなたのうちなる神に礼拝する」ということになる。
神が神に礼拝する。あるいは、仏性が仏性に礼拝する。真理が真理に礼拝する、ということだ。
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はからいを捨てて、なにかに「おまかせ」できれば、なんだっていいのかもしれない。南無阿弥陀仏だろうが、南無妙法蓮華経だろうが、なんだっていい(ぼくの場合)。
しかし、宗教とか教団になると、それぞれ、これじゃなくちゃいけない、いやこの本尊がどうで、ああで、となる。日蓮のマンダラにしても、いつ書かれたものか、その文字の配置がどうの、脇書きがどうのとややこしい
真宗でも、「南無」は発願回向、本願召喚、如来が発願して衆生の往生行を廻施した心だとか、もう途端に難しいことになってしまうのだ。それはそれで、ぼくには探求するのは、はてしないので楽しいのだが。
https://ichirindo.hatenablog.com/entry/20190112/1547255090