過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

南無妙法蓮華経メディテーション

頭は、いつもものすごいスピードであれこれ考えている。1分間に文字数にすれば、1,000枚くらの原稿量かもしれない。
それはエネルギーが漏れているとも言える。それだけで疲れる。考えると疲れる。
なので、想念を止める。考えを止める。それが瞑想ということになる。想念をフェードアウト(瞑)するということ。
下手の考え休むに似たり、と。いやしかし、休んでいても、眠っていても頭は、はたらいているようだ。なので、いつも働いている、自動的に動いている考えを止めることが大切。
大切というのは、止まってみるとわかるのだが、心身の調和感、充実感、心境の研ぎ澄まされ感、生命力の実感が得られる。
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そのためには、いろいろな方法がある。
感覚に意識を向けると、考えは止まりやすい。感じることと考えは両立しにくいからだ。考えてばかりいする人は、体の感覚の気付きが弱い。
ひとつのいい方法は、声を響かせると雑念、想念は止まりやすい。
声の響かせ方は何でもいい。
あーでもおーでも。あるいは、トホカミエミタメ、南無妙法蓮華経南無阿弥陀仏。オーム。自分が気に入った言葉を使えばいい。それはひとつの方便だから。方便とは、ウパーヤということで、真実に至る過程のこと、ツールのこと。
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ということで、ひさしぶりに南無妙法蓮華経とお題目を唱えてみた。
やはり唱題行はすごい。即、力感が現れる。それは、南無妙法蓮華経というリズムにあるとも言える。
ただ、唱えていると疲れると、無言で呼吸と南無妙法蓮華経と対応させてみた。南無妙法蓮華経メディテーションだ。
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ナーム(息を吸う・頭にてっぺんの意識)、吐きながら、ミョウ・ホー・レンゲー・キョーと頭〜顔〜喉〜胸〜ハラ〜足にまでおろしていく。
そして、最終的には何もなくても、たたただ呼吸。呼吸にともない体のふくらみ、縮みに意識を向ける。感覚を味わうだけ。ま、いわばマインドフルネス。ヴィパッサナー。
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日蓮の遺文(真筆、真偽未決、偽書は問わない)から、相応しそうなものをさがしてみた。。
「我等が頭は妙なり。喉は法なり。胸は蓮なり。胎は華なり。足は経なり。此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり」(御義口伝)
「此の処は人倫を離れたる山中なり、東西南北を去りて里もなし。かかるいと心細き幽窟なれども教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり。
されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり。
舌の上は転法輪の所喉は誕生の処、口中は正覚の砌なるべし。かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき。
法妙なるが故に人貴し人貴きが故に所尊しと申すは是なり。
神力品に云く「若しは林の中に於ても若しは樹の下に於ても若しは僧坊に於ても乃至而般涅槃したもう」と云云。
此の砌(みぎり)に望まん輩は無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん。(南条殿御返事)