過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

なぜ日蓮は漫荼羅をあらしたか

日蓮は、「末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。ただ南無妙法蓮華経なるべし」(上野殿御返事)と述べている。

末法の今において、あらゆる経典は無意味。日蓮が信奉し自らの根拠としていた法華経すらも、意味なし。「ただ南無妙法蓮華経」が大切という。

「南無妙法蓮華経」とは、法華経」という教えに帰依(南無)するという意味だ。サンスクリットの語源からいうと、「白い蓮のようなすばらしい教えに帰依します、おまかせします」となる。

しかし、日蓮にあっては、南無妙法蓮華経とは、たんなる秘密の言葉、お宝の利益を生む真言ではない。三世十方の諸仏(あらゆる仏)の根源である。大本中の大本。究極の真理、宇宙の根源、あらゆる創造の根拠みたいなことになる。

なので、ただ南無妙法蓮華経と唱えることで、真理と一体になり(境地冥合)、即身成仏すると説く。これ、日蓮思想のエッセンス。
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ところが、ここで「では、何に向かって唱えるのか」という問題がある。
空でも海でも大木でも山でもどこでもいいとは思う。しかし、日蓮は、南無妙法蓮華経と唱える対象として、晩年、十界文字漫荼羅をあらわした。

漫荼羅とは、すべてが収まっている。すべてが本然の輝きを表しているみたいな意味だ。

その日蓮漫荼羅は、中央に南無妙法蓮華経という主題が書かれ、釈迦仏、多宝仏、諸菩薩、鬼子母神、日天、月天、八幡大菩薩天照大神愛染明王不動明王、さらには天台大師、伝教大師などがずらっと並ぶ。

法華経の会座である「虚空会の儀式」をあらわしたともされる。このあたりの説明は複雑になるので、略す。

ともあれ、その漫荼羅に向かって唱えるのが、信仰修行の肝心要というわけだ。
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さてここで、「まてよ」と思う。

「ただ南無妙法蓮華経」というなら、南無妙法蓮華経だけでいいじゃないか。もっといえば、すべては「妙」の一字に収まるともいうのだから、「妙」だけでもいいじゃないか、と。そのほうが簡単だし。

では日蓮は、どうしてたくさんの諸仏、菩薩、天神地祇、人師・論師などをあらわしているのか。

で、こんなふうに考えた。

1)南無妙法蓮華経だけでは、「南無阿弥陀仏」と似たようにとらえられてしまう。日蓮よりも先行して全国に弘まっていた念仏と大差ない。あちらは、南無阿弥陀仏、こちらは南無妙法蓮華経。ひとつの真言を文字で表すという意味において、相違性があきらかではない。

なので、「こっちは、あっちとはちがうんだぞ」という意味で、諸仏菩薩などたくさん書いた。六字名号よりも、「どうだー!すごいだろう」と。

2)南無妙法蓮華経の一字だけよりも、たくさんあらわしたほうが、信徒がありがたがると思った。いろいろな仏、菩薩、ありがたい存在が並んでいれば、ありがたく思うだろう、と。

3)日蓮は、天台密教を学んでいた。それで、密教の漫荼羅には親しむところがあった。その密教の漫荼羅をベースにして、文字であらわしたした。

密教大日如来が中核にいる(胎蔵界曼荼羅)のだが、日蓮にあっては、南無妙法蓮華経がそれに替わる。あとの諸菩薩は大差なし。まあ、大きな違いは、日本古来の信仰とされている八幡神天照太神を入れたことだ。

じつは近ごろ、南無妙法蓮華経と墨で書いてみた。その勢いで、十界曼荼羅などを書いてみた。書いていながら、そんなことを感じたのであった。