ベトナムのお寺で盂蘭盆会に参加する予定だった。ティクナットハーンの弟子のお坊さんが来られるようだった。
しかし、どうしたわけか、道を間違えてしまった。で、諦めて妻の実家に行くことになる。妻とあかりを実家に預けて、ぼくは近くのお寺を訪ねる。
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本門佛立宗の正晨寺。八品派の日隆師の流れの宗派である。
ちょうど、盂蘭盆会の儀式。南無妙法蓮華経のお題目を唱える。
とても歓迎してくださり、昼食を御馳走になる。
住職は、短歌、俳句、川柳などとても造詣が深い。毎月、講座も開かれている。
そして短歌や文芸の話、そして法華談義。これがいつも楽しい。
この蕪村の俳句は、新古今のこの歌が底にあり、そのまた底には古今集があり、そして万葉集の歌があり、さらには中国の故事のこういうことが------というやりとりをよくするのであった。
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きょうは、法要の回向文を聞いていたら、本因下種の南無妙法蓮華経、日蓮大菩薩という言葉があったので、いきなりこう聞いたのであった。やりとりの詳細は別に投稿する。
───本因下種が南無妙法蓮華経であり、日蓮は末法において南無妙法蓮華経を弘める上行菩薩という役割ってことですよね。
そうすると、富士門流や創価学会の日蓮本仏論とは、紙一重。それはそもそも八品派の日隆師が種脱相対を論じて、その影響が京都要法寺に及び、そして富士大石寺に至って日蓮本仏論になるということですか。
「それは隆師が一仏二名論ということで、釈迦本仏と上行菩薩が同体である。釈迦が仏としたならば師匠がいるわけで、そうなると上行菩薩が師匠になる。しかし、釈迦は神力品で、滅後の布教を上行菩薩に付属する云云」
というような、ややこしい話をしたのであった。ぼくはこういうのは大好きであり、住職も「そうきたか、ではこういうことだ」というやりとりになる。
あいにく、次の訪問客があり、話は中途で切れてしまったが、パーリ語、原始仏教、日蓮教学、短歌、俳句に造詣のある住職。こうしてやりとりができるというのは、まことにありがたいことだ。
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そして、88歳になる布絵作家の竹山さんが引っ越されたので、新住居をお訪ねする。『もめん大好き』という本の二冊目の画集をいま制作中。「わたしが死ぬ前にちゃんとつくってよ」と念を押された。
そして、二人で青空に浮かぶうつくしい雲を眺めながら「死んだらどうなるんでしょうね。どこにいくんでしょうね」「そうねえ、どこにいくのかしら」と笑いあった。
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帰りには、あかりが「阿多古川で泳ぎたい」と言う。17時を過ぎていたのだが、泳いだよ。そこはブラジルの人ばかりのエリアで100人くらいはいたかなあ。太鼓を叩いて歌っていた。かれらは明るい。目が合うと、互いに笑いあえる。なにか話しかけられたが、ポルトガル語はわからない。
帰途、国道沿いに屋台(山車)が出ていた。黒い漆が塗られた美しい屋台であった。あかりは屋台を見るのは初めてで、たいそう感銘していた。夏祭りがはじまる。