過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

天台の五時教判、久遠仏などについて

天台の教相判釈、五時教判と一念三千の哲理が最高。
真言宗は、婆羅門諸派から取り入れたもので仏教ではない。
浄土教は、法然が正法である『法華経』を捨閉閣放という。そこを日蓮が批判した。
禅宗は、我見容認の教えで、仏教ではない。
法華経が仏教の核心。天台の探究そして日蓮に至る。
 
……というようなことを言われる方がいたので、ざっくり反論してみた。かなりざっくり。いつものように、頭の整理のために書いている。
 
①天台の五時教判は荒唐無稽。ブッダが歴史的に説を述べたわけがない。なにより、大乗はブッダの説に非ず。
 
しかも、天台の五時教判には、密教は入っていない。理由は、天台智顗の時代に、密教は伝えられていなかった。
 
最澄は、中国に渡って密教を日本に伝えた。しかし、本質を理解していなかったので、後に空海から学ぼうとする。しかし、その学び方が甘かったので、空海から厳しく弾呵される。
 
その悔しさ、師の無念を思って、最澄の弟子たち、円珍や円仁は、密教を学びに中国に渡る。そして、東密よりも台密のほうが、ダイナミックな展開となる。
 
その流れから、天台本覚思想が生まれる。その土壌から、法然親鸞道元日蓮が現れる。
 
③天台智顗の一念三千論のベースにある十如是は、翻訳者の鳩摩羅什のこじつけ。鳩摩羅什が原典を敷衍して十にカテゴライズした。そもそも、原典には十もない。十あったとしても、如是相、如是性、如是体のような概念と、本末究竟等が同種にカテゴライズされるのはおかしい。
 
真言は、婆羅門諸派から取り入れたというのは、そのとおりと思うが、しかし大乗そのものがヒンドゥーヴェーダの哲学と大同小異。
 
苦・無常・無我が原始仏教の真髄とすると、大乗は、如来蔵、不滅の真理身(法身仏、久遠仏)など永遠不滅性を立てる。それはブッダの教えとは根本的に逸脱している。婆羅門説と同体。
 
法然の選択集には「捨閉閣放」の文はない。法然は聖道門を大切にしていたし、自らもそのように生きた。ただ、衆生のためには、聖道門は難しすぎる。そこで、易行道を勧めた。
 
日蓮は、その法然の易行道にならって、南無妙法蓮華経をすすめた。そうして、霊山浄土を説いた。それは、浄土思想を玄関口で追い払い、裏口からこっそり、招いたようなもの。
 
⑥『法華経』が仏教の核心ということになれば、日蓮の生き方は、『法華経』の本門の実践者ではない。勧持品を身で読んだというのであれば、迹化菩薩に当たる。本化地涌の菩薩は、迫害や苦難を耐え忍んで説法するすがたではない。従地涌出品を読めばわかる。
 
末法は釈迦の功力がないというのは、『法華経』の如来寿量品にある「常住此説法」「常在霊鷲山」と矛盾する。
 
日蓮正宗創価学会の信奉する日蓮本仏論など、ブッダの説とはとんでもなく逸脱している。それは、永遠不滅の実体であり、宇宙創造の原理であり、まさに婆羅門の哲学と通底する。