①仏教とは、仏(ブッダ)の教えである。その教えは、「経典」としてのこされている。しかしこれが、はたして「ブッダの説」であるのかどうか。
②経典の設立は、ブッダの滅後である。滅後百年後くらいに文字としてあらわされた。大乗経典に至っては数百年後、密教については七百年後くらいか。ということで、経典は仏説とはいい難い。
②ブッダがはたして悟っていたのかどうか。だれもわからない。だって悟りの本質を誰もわからないから。
ゴータマシッダールタという人がいたことは歴史的に実証されている。遺骨も発見されている。
その方は、すごく優れた人格者であり、後世に影響を及ぼした。インドに統一国家をつくったアショカ王やカニシカ王が政治の統治原理にしたのも事実である。しかし、ブッダが悟っていたのかどうか。わからない。
③仏教とはブッダが悟っていたというところからはじまつている。キリスト教が、イエスは神である、あるいは神の子、救世主であるところから出発しているのと似ている。イエス自身が、神であったかどうか、だれにもわからない。
③経典は後世が全く創作したとも考えられる。それはブッダの説ではない。だから、仏教といえるのか。いえないだろう。
いや、しかし経典は、ブッダが言ったであろう真意を追体験してあらわしたともとらえられる。それも、直截に表現したものではなくて、いわばメタファーとして、譬えとしてあらわしている。
④人間ブッダの教えに近いのが、「スッタニパータ」とか「ダンマパダ」という原始経典といわれる。すなわち人間らしさがみえる。この点、『新約聖書』のイエスの言葉にも通じる。それに比べて、大乗経典などは人間をまったく超越している。
⑤大乗経典になると、創作的なものがかなり入ってくる。そのエッセンスは「法華経」であり、「華厳経」である。さらに、ぶっとんでいるのが密教経典だ。
華厳や密教においては、そもそも説法しているのは、ブッダではなくて摩訶毘盧舎那仏や大日如来である。それら大宇宙を身体とする宇宙仏である。真理そのものが語ったという形にして表現されている。
⑥そんなもはブッダの教えではないとも言いきれるか。むつかしい。だが、インドに生まれたブッダを通して語られた真理が、メタファーとして語られていると言い方もできる。
宇宙的な真理が、ブッダという人間を姿を通して時間的空間的に限定されたものとして現れるともいえる。それが大乗経典だ。
⑦たしかに、歴史的、実証的にはブッダの説ではない。しかし、ブッダの言いたかったことを後世がとらえて文字にしたということもできる。
創作であり偽書であり、物語なのだ。しかし、それぞれが仏の味わいとしてとらえていく。そこが、仏教のとらえどころのない大きさであり魅力とも言える。
⑧真理がブッダを通して現れたとしてみていると、それはなにもブッダだけではない、ということもできる。仏典だけが真理ではない。すべてこれ真理の表れであり、真理に至る道であるともとらえることができる
⑨全てが真理の現れとみていく。あらゆる教えが真理である。何を選ぼうと、そこを深めていけば真理にたどり着くとも考えることができる。
⑩じゃあ真理とは何か。それがわからない。自分というものがもうない。自分を超えた世界。我を脱却する道。
そして、この我執が曲者。仏教とか宗教を信仰したり実践すると我が強く現れやすい。これが正しいと声高に主張しようとする。その時点で、すでにして執着であり真理とは離れている。
⑪だから経典にとらわれず。宗教とか聖典とかとらわれず、そういうこととは全く関係なくして、なにかひたすら描いているとか、彫っていくとか、山を歩くとか、友禅染の色付けをするとかそういう打ち込む中に真理が現れるのかもしれない。
朝、寝床の中で思いついたことを音声入力してみた。こういうのは楽しい。