数多(あまた)ある経典の中でも、『ダンマパダ』は最古層のたぐいである。他に、『スッタニパータ』もそうだ。
そこにはみられるブッダのたとえは、なかなかすばらしい。
たとえをとおして、なるほどそういうことかという感じがつかめる。
ダンマパダから、たとえの部分をピックアップしてみた。たとえを「 」でくくった。
『新約聖書』もそうだが、教えの見事さ・わかりやすさは、たとえばそのたとえの見事さにある。いくつかあげてみよう。
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2 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――「影がそのからだから離れないように。」
7 この世のものを浄らかだと思いなして暮し、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。――「弱い樹木が風に倒されるように。」
8 この世のものを不浄であると思いなして暮し、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。――「岩山が風にゆるがないように。」
25 思慮ある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、「激流もおし流すことのできない島」をつくれ。
46 この身は「泡沫のごとく」であると知り、「かげろうのようなはかない本性のもの」であるとさとったならば、悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。
95 大地のように逆らうことなく、門のしまりのように慎み深く、「(深い)湖は汚れた泥がないように」――そのような境地にある人には、もはや生死の世は絶たれている。
121 その報いはわたしには来ないだろうとおもって、悪を軽んずるな。「水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる」のである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。
145 「水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め」、慎み深い人々は自己をととのえる。
170 世の中は「泡沫のごとし」と見よ。世の中は「かげろうのごとし」と見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。
173 以前には悪い行ないをした人でも、のちに善によってつぐなうならば、その人はこの世の中を照らす。――「雲を離れた月のように。」
240 「鉄から起った錆が、それから起ったのに、鉄自身を損なう」ように、悪をなしたならば、自分の業が罪を犯した人を悪いところ(地獄)にみちびく。
241 読誦しなければ聖典が汚れ、「修理しなければ家屋が汚れ、身なりを怠るならば容色が汚れ」、なおざりにするならば、つとめ慎む人が汚れる
254 「虚空には足跡が無く」、外面的なことを気にかけるならば、〈道の人〉ではない。ひとびとは汚れのあらわれをたのしむが、修行完成者は汚れのあらわれをたのしまない。
283 一つの樹を伐るのではなくて、「(煩悩の)林を伐れ。危険は林から生じる。」「(煩悩の)林とその下生えとを切って、林(=煩悩)から脱れた者となれ。修行僧らよ。
345、346 鉄や木材や麻紐でつくられた枷を、思慮ある人々は堅固な縛とは呼ばない。」宝石や耳環・腕輪をやたらに欲しがること、妻や子にひかれること、――それが堅固な縛である、と思慮ある人々は呼ぶ。それは低く垂れ、緩く見えるけれども、脱れ難い。かれらはこれをさえも断ち切って、顧みること無く、欲楽をすてて、遍歴修行する。
387 太陽は昼にかがやき、月は夜に照し、武士は鎧を着てかがやき、バラモンは瞑想に専念してかがやく。しかしブッダはつねに威力もて昼夜に輝く。「深い湖が、澄んで、清らかであるように」、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。
413 「曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく」、歓楽の生活の尽きた人、――かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。
その他、たくさん。ランダムに上げけていく。
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54 「花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀もタガラの花もジャスミンもみなそうである。」しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。
239 聡明な人は順次に少しずつ、一刹那ごとに、おのが汚れを除くべし、――「鍛冶工が銀の汚れを除くように。」
40 この身体は「水瓶のように脆い」ものだと知って、この心を城郭にように(堅固に)安立して、知慧の武器をもって、悪魔と戦え。克ち得たものを守れ。――しかもそれに執著することなく。
47 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、「眠っている村を、洪水が押し流して行くように。」
48 「花を摘むのに夢中になっている人」が、未だ望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。
60 「眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。」正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。
たくさんあるので、このあたりで止める。