過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ヒーナヤーナは小さな智慧、マハーヤーナは大きな智慧

お経(仏典)は、ブッダが直接著したものではない。長い年月に渡って、弟子がまとめたものである。
そのあたり、イエス・キリストソクラテス孔子老子も同様だ。
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ブッダが滅すると、弟子たちによって、教えがまとめられ、韻を踏んで口承して整理されていく。それがざっとブッダの滅後百年。これが小乗仏教とよばれる。
そして、滅後数百年してあらわれるのが大乗仏典だ。まあそこへ行くと、イエスの教えなどは、百年もかからずに整理されていく。
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代表格の『法華経』などは滅後五百年か、密教に至っては滅後七百年というところ。そのくらい、仏教はロングスパンだ。
なので、各経典は、それぞそれの教えがバラバラで統一性がとれていない、真反対のものも多い。密教華厳経に至っては、ブッダが教えを説いていない。大日如来、摩訶毘盧遮那仏の教えである。
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さて、一般的には、古代の初期仏典は、パーリ語としてのこされていったといわれる。南方仏教がそれだ。
ブッダの教えは、パーリ語が古く、大乗仏教サンスクリット語)はそれより新しいとされる。大乗非仏説と呼ばれるゆえんである。
しかし、時代考証していくと、小乗のほうが古いし、ブッダの教えが正確に伝わっているかというと、どうもそうでもないらしい。小乗も大乗も成立の時代がかぶっている。
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ややこしいのは、ブッダの教えは口承なので、教えが文字にされなかったためだ。
文字にされなかったのは、聖なる言葉は口伝えに意味があると思われていたのだろう。古代ヴェーダ聖典などは、聖なる響きは文字にされてこなかったのと同様だ。
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しかし、時代を経ると、教えを正確に広く伝えようとして文字にしていく。
問題はその時点で、古代パーリ語という文字はなかったことだ(ブッダは古代マガダ語で語ったとされる)。
それまでは口承だけなので、文字にするときには、現地の言葉で書かれていく(プラークリット)。ひとたび文字に書かれてしまうとそれが固定して、ブッダの教えとなる。
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ということで、古代パーリ語のみが正確にブッダの教えとなっているかどうか、そこはわりと疑わしい。ある部分が正確でも、ある部分、独自の解釈や改ざんがされた可能性だってある。文字化されるほどに改ざんの可能性はある。
あるいは、口承ゆえに、聞き間違いということもある。たとえば、日本人には、エルとアールはの違いは、差異がない。文字ではあらわしにくい(ヴァとバ)。buddhaのdhという発音などは、とても難しい。その他、細かい点、表しにくいものがたくさんある。
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で、たとえば、ヤーナという発音だ。ラーマヤナरामायणम्, : Rāmāyaṇamという伝承文学がインドにあるが、「ラーマ王子の行上記」というような意味だ。
ヤーナ、ヤナ、ジャーナなど、文字にする過程で勝手に聞き間違えてることも出てくる。
小乗はヒーナヤーナの訳で小さな乗り物、大乗はマハーヤーナの訳で、大きな乗り物ということになっている。
この場合、ヤーナは乗り物という意味である。
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ということで、もしかしたら、ヤーナではなくてジャーナ(智慧)なのかもしれない。
すると、ヒーナヤーナは小さな智慧、マハーヤーナは大きな智慧
こう訳されたほうが正確かもしれない。
ブッダの教えを「乗り物」ととらえるよりも、智慧の道ととらえる。智慧を磨いて自ら苦悩の世界を渡る道、それがブッダの教え。船に乗っかって渡してもらおうという考えよりも、ブッダの教えに近いのではないか。


以上は、古代の仏典のざっくりした話。
厳密に時代考証してはいない。また時間ができたらまとめていく。