友達が訪ねてきたので、ざっくり仏教話。
──やあ、ひさしぶり。京都から帰ったきたんですね。京都はお寺が多いので、見どころ満載でしたね。
「いやそれが、なかなかお寺は訪ねませんでした。京都はまちなかに自然が多いので、大したものだと思いました。仏教の話を聞きたいんですけど」
──広沢の池あたりなど、田んぼがありますしね。人工林の杉もきれいな枝打ちされている。
京都はいいですね。ぼくなど仏教が大好きなので、もう毎日、あちこち訪ねていたかもしれない。
ともあれ、かいつまんでざっくり仏教のお話しましょうか。
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仏教っていうくらいだから仏(ブッダ)の教え。ブッダは、紀元前5世紀くらいの人。いまから2500年も前ですね。
それが、インドから中国、朝鮮を経由して日本にきたのが、1500年位まえ。以来、いろいろ変容して“日本仏教”になりましたね」
「“日本仏教”というと?」
「ほんらいのブッダの教えと大きく逸脱している独自なもの、といえましょうか。肉食妻帯して、お寺に暮らしている坊さんは日本だけだし。
ブッダよりも、大日如来とか、阿弥陀如来とか、久遠本仏とか、日蓮などを拝むのも日本独自です。
“非僧非俗”だといって、頭を剃らないで在家とほとんど変わらない暮らしをしているお坊さんも多い。そして、葬式仏教に先祖供養、加持祈祷。こういうのは、ブッダの教えとは逸脱していますね。
「まあたしかに。結構、贅沢な暮らしをしているみたいに見えますね。ところで、どうしてブッダの教えから逸脱するようになったんですかね。」
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──歴史から説き起こすと長い話になります。ブッダを信奉したのはマガダ国のビンビサーラ王やアジャータシャトル王。
マガダ国には、竹林精舎があったし、近くには霊鷲山がありました。霊鷲山には途中まで馬車で行って、歩いて登ったことがあります。
で、ブッダ滅後には教団組織が残って、その教えを伝えていました。
インドを統一したマウリヤ朝の第3代のアショーカ王は、深く仏教を帰依して、インド各地にブッダの霊跡に石碑を残しました。いまでもそれが残っています。釈尊滅後およそ200〜300年くらいですかね。
アショーカ王の石碑の、獅子柱頭などは、いまのインドのエンブレムですし、インドの国旗は、お釈迦さまの教え(四諦八正道、十二因縁)をシンボル化しています。
「なるほど。インドのお札にも、アショーカ王の石碑のマークが印刷されていたような」
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──で、ともあれブッダの教えは国教のようになりました。ブッダの像もその頃あらわれているんですね。最初は、ブッダの教え、次に仏足石、そして菩提樹とシンボル化されて、ついでヒンドゥー教にならって石像ができていく。
「よくいわれるガンダーラ仏とはちがうんですか」
──あれは、ギリシア文明との接触に由来しますね。なにしろ、マケドニアのアレクサンダー大王はインドまで攻めてきました。そして、ギリシアに帰らなかった兵士たちが、西インド、いまのパキスタンあたりに住む。そうすると、ギリシア彫刻やギリシア神殿のようなものがつくられていくんですね。
当時は、クシャーナ朝の、カニシカ王。2世紀なかごろです。イラン系民族のクシャーナ族が、西北インドに侵入してつくった国といわれています。
ギリシア・ローマ起源のヘレニズムと、ペルシアのイラン文化、さらに中国と中央アジアの文化が融合し、ガンダーラ美術が開花した。大乗仏教がこの頃、興隆しました。ブッダの滅後500〜700年くらいですかね。
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「阿弥陀様を拝むとか、そういう教えになったんですね」
──そもそも、ブッダの教えは、拝む教えではなくて、自らが自らを清めていく道。他人に拝んでもらうとか、偉大な存在を礼拝して救ってもらうみたいな教えじゃなかった。
ところが、クシャーナ朝になって、イランの宗教(ゾロアスター教)みたいなものが入ってくると、それらに対抗して、阿弥陀如来とか、薬師如来とか、なにか人間を超えた存在を作り上げていったんだと思います。
「その教えが、インドから中国に渡ったということですね」
──自分で歩む宗教から、拝む宗教。加持祈祷の宗教。そして、自分が救われる教えから、鎮護国家の教えになっていくんですね。精進潔斎した坊さんが、呪文のようにお経を読むと、国が繁栄する。戦乱や疫病が流行らなくなる。そういう神秘的なものに変容していきます。
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「それを輸入したのが日本仏教ということになりますね」
聖武天皇は、奈良の東大寺に大仏(毘盧遮那仏)を建立して、全国各地に国分寺を老いた。
いわば大仏がホストコンピュータ。国分寺は端末みたいなもの。
それで、霊的なチカラで全国をおさえようとしたのかもしれない。
その時代、お坊さんは国家公務員。疫病などが流行ると、元号を変えたり、坊さんを増やしたりしていた。
かれらは知識人で、勝手にはなれない。葬式などやるなという「僧尼令」があった。また、民衆に交わって教えを説くな、とか。
「お坊さんが葬式しちゃいけなかったんですね」
──精進潔斎したお坊さんが、神秘的な呪文やお経を唱えると、国が繁栄する。守られるという考えですね。葬式したら、死穢がうつってその霊力が失われてしまうとおもったんでしょう。
けれども、やがて奈良仏教の坊さんが政治に介入してきて、これが煩わしいとして、桓武天皇は平安遷都した。それがいまの京都の由来ですね。
「なるほど」
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──しかし、やはり人々を統治するために仏教は必要で、新しい都にあらしい仏教をもとめた。それが、最澄の比叡山天台宗と空海の真言宗。
この両者の経緯は、いろいろあっておもしろい。
最澄が桓武天皇から求められたのは、小難しい天台教学じゃなくて、密教でした。桓武天皇は、怨霊に悩まされていたし、効き目の有りそうな最先端の密教を求めた。最澄は不本意ながら、にわか仕立ての密教を潅頂する。
しかし、いわば草野球チームに大谷レベルのスーパースターが現れる。それが空海でした。
最澄は驚いて、空海の弟子となって密教を学ぶ。しかし、事相という身体的な行を伴う修行はしなかった。学問的に学ぶのみ。それで、空海に叱られて絶交となる。
弟子たちは、師匠の無念さを感じて、円珍や円仁は入唐して密教を学ぶ。比叡山天台宗は、天台密教の拠点となる。
そうして、多くの弟子たちが活躍する。鎌倉仏教の祖師たちはみんな比叡山で学ぶ。
比叡山から、法然、親鸞、道元、日蓮など鎌倉新仏教が登場してくるわけです。
まあ、たいへんざっくり仏教史。続きはまた。