過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「仏教はいつから堕落したのか」と質問を受けた

昨日、来訪した友人から「仏教はいつから堕落したのか」と質問を受けた。それで、次のように答えた。
 
日本のいまの仏教は、堕落というよりも、ほんらいの仏教、すなわち「ブッダの教え」とは、逸脱している。
 
ブッダの教え」とは、生きている人のための教え、迷い苦しみを超える道。ものごとをあるがままにみていく道。加持祈祷や先祖供養は、ほんらいの教えのありようではない。
 
そこで、ざっくりとその逸脱の過程を整理してみた。
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鎮護国家の教えとして、受け入れられた。
 
奈良時代、仏教が渡来したのは、生き方の教えではなくて「鎮護国家」のための呪術的な効力を期待してのことであった。
 
坊さんは、国家公務員であり、飢饉、疫病、戦乱など起きないように祈ることが務めであった。そのために、「葬儀をしてはならない」と、僧尼令で禁止された。葬儀をすると死の穢れが伝染して、祈祷の力が弱くなるのだと思われる。
 
そして、平安時代においては、密教東密台密)が盛んであり、加持祈祷がメインであった。
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②生き方としての仏教が伝わったのは、鎌倉時代の祖師たちによって。
 
法然親鸞道元日蓮、一遍などは、生き方としての教えであった。加持祈祷、先祖供養や死者の葬儀など、ほとんど副次的なものである。
 
「念仏の声のするところ我が遺跡」と法然。「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず」「(私が)閉眼せば、賀茂河にいれて魚に与うべし」とは、親鸞。「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」は、道元
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徳川時代キリスト教禁圧のために、寺請制度、檀家制度。そこから固定的な仏教に。
 
すべての人が檀家として割り振られていたので、布教の自由はなかった。寺院は、戸籍や通行手形を発行する役所のようなものとなる。また、寺子屋として教育の場でもあった。
 
葬儀を行うことが寺院の務めとされた。そこから、葬式仏教が定着した。それでも、僧侶の妻帯は禁止されていたので、寺院は有能な弟子が後継となっていった。
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④明治になって僧侶の妻帯が自由となる。家業として寺院が継承される。
 
明治になって、天皇中心の絶対主義国家を作るために、天皇を現人神とする新宗教が作られた。国家神道である。そのとき、神仏分離令が出され、神社と仏閣は分離された。多くの寺院は破壊された。
 
とともに、太政官布告で、僧侶の肉食妻帯は自由とされた。それ以前にも、ひそかに妻帯していたが、この太政官布によって、堂々と僧侶は妻帯し家庭を持つようになる。すなわち、家庭仏教となった。そうなると、寺院は自分の子に継がせたい。財産は子に譲りたいと思うのが自然である。
 
そのため、寺院は家業となった。寺に生まれた者は、仕事として、家業として、寺院という財産を継承することになる。出家とはカタチばかり。菩提心からではない。そこから現在の仏教のありようにつながってくる。
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⑤いま求められている「生き方の教え」。
 
先祖供養も葬儀も大切である。しかし、自分の生き方が最も大切。そこにこたえる仏教が問われている。いま魅力的に映るのは、初期仏教(テーラワーダ、マインドフルネス)、あるいはチベット仏教である。
 
今月末に、禅宗の布教師会の講師に呼ばれているんだけど、こんな話をしたら、嫌がられるかなあ。