過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

お経と聖書

いまの日本でお経がよまれるのは、お坊さんの日々の行、勤めとして、読まれる。檀家の葬儀や先祖供養として、よまれている。あるいは、加持祈祷の呪文的な効果としてよまれる。

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そもそも仏教は、「鎮護国家」の教えとして渡来した。その「効き目」が期待された。すなわち、お経の力、仏像の力、坊さんの力である。だから、坊さんは、「葬儀に関わるな」「精進潔斎しろ」「妻帯するな」「民衆に布教するな」などと『僧尼令』に定められた。

お経は、哲学的、学術的、神秘的、論理的、幻想的で、まことに幅が広い。けれども、その神秘的な霊力こそが大切にされたのではなかろうか。

内容は二の次。その呪術的な響きがありがたい。訓読・和訳されると、ありがたみ、効き目、祈祷力が薄れると。ゆえに、ずっと現在にいたるまで、お経は音読されている。

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そうして現代の日本にあっては、お経は「死者」のために読まれることが多い。先祖供養によまれる。

「生きている人」のため、自らの生き方として、暮らしの支えとして、よまれることは少ない。創価学会真宗の信徒たちはちがうと思うが、それはまた別の機会にしたい。

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さて、「お経」は「聖典」という意味でみたとき、キリスト教と比較してみよう。

キリスト教は、その教えは一冊の「バイブル」として集約されている(旧約と新約)。しかも、ちゃんと意味のわかる日本語に訳されている。

もともとの原語であるヘブライ語ギリシア語、あるいはラテン語で読まれることはない。原語がそのまま書かれているのは、イエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)という十字架でその命を果てようとする最後の言葉くらいであろうか。

詩篇とか、イエスの言葉だけを抽出して、韻律に訳し直して、みんなで唱えやすいようにするといいと思ったりするが。ま、そのあたりは、賛美歌があるわけだが。

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聖書は、死者のため、あるいは呪文として読まれることは、ほとんどない。

聖書は、いわば古典中の古典。教養の宝庫である。信徒にとっては、イエス・キリストの教えを暮らしに生かすためであり、イエスの心を知るためであり、霊的に神と交流するためであるわけだ。

そのあたり、聖典と生き方というところから、仏教のお経と比較してみると、おもしろい。