過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

いろいろな宗派のお坊さんがあつまって、儀式をしようというとき、共通する仏様があるようでない。お経があるようでない。

日本の仏教の宗派は、たくさんある。

代表的なもので、天台宗真言宗、浄土宗、浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗。その他、華厳宗法相宗法華宗……。

たとえば真言宗だけでも、高野山真言宗新義真言宗豊山派、新義真言宗・智山派、信貴山真言宗泉涌寺派、東寺真言宗……とたくさん。各宗派で細かく見ていくと、あわせて100くらいになるかもしれない

みな等しく、仏教である。お坊さんとよばれる。僧侶である。お経をよむ。仏様を拝む。お寺にいる。袈裟衣を着る。法事をする。

でも、おがんでいる仏様は、じつはいろいろなのだ。

仏教だから「お釈迦さま」を拝む。それはあたりまえなんだけれども、その中身はいろいろ。

インドに生まれたお釈迦さまは、化身みたいなもので、本体は、久遠よりの永遠のブッダである。大日如来あるいは毘盧舎那仏のあらわれである。うちとこは、阿弥陀様の本願をたいせつにしています。などなど。

じゃあお経は、というと、これもいろいろある。

法華経理趣経阿弥陀経、般若心経、正信偈親鸞の作)、大悲心陀羅尼、いろいろな呪文や真言。あるいは南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、不動真言、光明真言……と。

なので、いろいろな宗派のお坊さんがあつまって、儀式をしようというとき、みんなで共通する仏様があるようで、ない。共通して読めるお経があるようで、ない。じつにひとつもないのだ。

まず仏様はなんにしようかというと、きまらない。うちは、お釈迦さま、うちは大日如来、うちは久遠仏、うちは阿弥陀仏……ということになる。

そしてお経だ。日蓮宗浄土真宗は「般若心経」は読まない。浄土真宗は「法華経」を読まない。真宗以外の宗派は、「正信偈」は読まない。などなど。

でも、みんなで共通するお経って、あったほうがいいのでは、と思うけど。それがむつかしい。いろいろこだわりがあるからね。うちとこが絶対だし。

じゃあ、すべては「あーーー」ではじまるのだから、「あーーー」でいいのでは。さあ、みんなで唱えましょう。「あーーー」。あるいは、「なーむ」はどうだろう。「なーーむ」。

となると、かんたんである。みんなが唱えられる。いいと思うけど。

そうなると、お坊さんのありがたさがなくなる。難しくて意味のわからないようなお経をよむので、お坊さんは価値がある。そういうとらえかたもある。みんながよめるお経になったら、お坊さんの価値が減るってことになるか。