過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

(1)牧師や司祭とやりとりをするようになり、いろいろ学びがあった。

(1)これまで、ぼくはキリスト教の現状については、詳しくなかった。今回、「神社・寺・教会カフェ」の企画で、牧師や司祭とやりとりをするようになり、いろいろ学びがあった。

新しい企画は、手間がかかってたいへんだが、そこに出会いと気づき、ネットワークができることが楽しいものだ。

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「教会」とは何かということ。「教会」というのは、いわゆる建物ではない。ほんらいは集まることが趣旨である。

聖書には、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18)とあり、福音を学ぶところに、イエスがいるというのだ。

祈り、学び、集い合うとき、雨や風や日差しよけのために建物が作られた。それが教会の起原だ。

これは、お寺も同様で、ほんらいはサンガ(教えの学び合い)のための建物である。サンガが僧伽(そうぎゃ)と漢訳されて、それが僧となった。

「仏法僧の三宝」とは、ブッダとその教え、そして教えを学びあう集いのことだ。けっしてお坊さんだけを指すのではない。ましてや、お寺は坊さんのための住まいではない。ほんらい、学び合う道場なのだと思う。

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信徒についてである。日本の寺のほとんどは檀家によって支えられている。あたりまえだが、教会には檀家はない。信徒によって支えられている。しかも数十人だから、牧師たちは清貧な暮らしだ。

日本の檀家は、お寺に行くのは、お彼岸と法事のときくらいで、信仰しているわけではない(真宗はすこし違うが)。いわば、先祖のお墓があるので行くわけだ。

キリスト教の信徒は、毎週日曜日に教会に通う。それは信徒の8割くらいになるという。

運営の軽費はどうなっているのか。教会は、信徒の寄付によって成り立つ(カトリックは少し事情が違う)。

また、お寺のように戒名とか葬式の不施を要求することはない。理髪店で働いたり、共働きしながら、教会を維持している牧師さんもおられる。
(つづく)