「いい文章だから、いい内容だから、真蹟だろうが偽書だろうが、どうでもいい。気に入った文章を生き方の指針とする」という読み方もある。ぼくは、その立場だ。
しかし、そうはいっても、オリジナルの日蓮思想はどういうものかを、まず明らかにしたい。真偽の峻別はしたいところ。
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江戸時代の富永仲基は経典を大きくとらえるとき、「幻」「文」「絞」という見方をした。いわば、民族の言語表現の特質を規定するものがあった、そのうえで思想が展開されると。
「道を説き教へをなすは、振古以来、みな必ずその俗によつて、もつて利導す。君子といへども、またいまだここに免れざる者あり。竺人の、幻における、漢人の、文における、東人の、絞における、みなその俗しかり。いたづらにその俗をもつて、互相に喧豗する者は、ことごとく客気なり」『出定後語』
インドの「幻」は、幻術性・神秘性、時空を越えたイリュージョン、イマジネーション。まさに、『法華経』という創作物語のありようだ。
中国の「文」とは、文で修飾し、整理整頓、緻密細密な理論付けを行なう。天台智顗のあらわした「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」などをみればわかる。
日本は「絞」。ポイントをぐっと圧縮していく。そこに多様な意味を含ませる。「清介質直の語」「直切の語」を生み出すと言う。たとえば、法然が選択した南無阿弥陀仏、日蓮のすすめた南無妙法蓮華経である。
「しかし、神秘・秘伝・伝授にて、只物をかくすがそのくせなり」(翁の文)とも言う。
そんなことで、偽書が増えていくのかもしれない。
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仏教そのものが、ほとんどが釈迦に仮託した偽書といえる。
とくに大乗仏教。さらに密教になれば、教主は釈迦ではなくて、大日如来、毘盧舎那仏となる。また、大乗仏教の祖師とされる龍樹、あるいは世親の著作のほとんどが、かれらに仮託された偽書ともいえる。
また古典中の古典、馬鳴の「大乗起信論」などは、中国での創作といわれる。『法華経』の開経である「無量義経」も中国創作説が濃厚だ。
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仏教とは、ブッダの滅後からはじまる「大創作運動と」も言える。インド〜中国〜日本と、みんなが想像をめぐらし、あるいは自分たちに都合よく作り上げ、さらに積み上げ、継ぎ足していく。そして「これぞブッダの、祖師の真意である」と宣揚する。
まあそれが、いかにも仏教の懐の広大さであり、あいまいさであり、魅力とも言えるか。探求は尽きない。