過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

富永仲基は経典を大きくとらえるとき、「幻」「文」「絞」という見方ょ

日蓮における偽書の続き。

「いい文章だから、いい内容だから、真蹟だろうが偽書だろうが、どうでもいい。気に入った文章を生き方の指針とする」という読み方もある。ぼくは、その立場だ。

しかし、そうはいっても、オリジナルの日蓮思想はどういうものかを、まず明らかにしたい。真偽の峻別はしたいところ。
 ▽
江戸時代の富永仲基は経典を大きくとらえるとき、「幻」「文」「絞」という見方をした。いわば、民族の言語表現の特質を規定するものがあった、そのうえで思想が展開されると。

「道を説き教へをなすは、振古以来、みな必ずその俗によつて、もつて利導す。君子といへども、またいまだここに免れざる者あり。竺人の、幻における、漢人の、文における、東人の、絞における、みなその俗しかり。いたづらにその俗をもつて、互相に喧豗する者は、ことごとく客気なり」『出定後語』

インドの「幻」は、幻術性・神秘性、時空を越えたイリュージョン、イマジネーション。まさに、『法華経』という創作物語のありようだ。

中国の「文」とは、文で修飾し、整理整頓、緻密細密な理論付けを行なう。天台智顗のあらわした「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」などをみればわかる。

日本は「絞」。ポイントをぐっと圧縮していく。そこに多様な意味を含ませる。「清介質直の語」「直切の語」を生み出すと言う。たとえば、法然が選択した南無阿弥陀仏日蓮のすすめた南無妙法蓮華経である。

「しかし、神秘・秘伝・伝授にて、只物をかくすがそのくせなり」(翁の文)とも言う。

そんなことで、偽書が増えていくのかもしれない。
 ▽
仏教そのものが、ほとんどが釈迦に仮託した偽書といえる。
とくに大乗仏教。さらに密教になれば、教主は釈迦ではなくて、大日如来毘盧舎那仏となる。また、大乗仏教の祖師とされる龍樹、あるいは世親の著作のほとんどが、かれらに仮託された偽書ともいえる。

また古典中の古典、馬鳴の「大乗起信論」などは、中国での創作といわれる。『法華経』の開経である「無量義経」も中国創作説が濃厚だ。
 ▽
仏教とは、ブッダの滅後からはじまる「大創作運動と」も言える。インド〜中国〜日本と、みんなが想像をめぐらし、あるいは自分たちに都合よく作り上げ、さらに積み上げ、継ぎ足していく。そして「これぞブッダの、祖師の真意である」と宣揚する。
まあそれが、いかにも仏教の懐の広大さであり、あいまいさであり、魅力とも言えるか。探求は尽きない。