過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

無限をさまざまな譬喩で語ろうとする カルパ

インドでは、これでもかこれでもかと、無限をさまざまな譬喩で語ろうとする。

インドのありようが「幻」といわれるゆえんである。「幻」は明確ではないが、イメージは伝わる。ちなみに中国は「論」。論は、明確であるがイメージは伝わりにくい。日本は「絞」。盆栽や俳句のように、膨大で難しいものを、短い言葉やシンボルに縮めてしまう。このあたりは、江戸時代の天才、富永仲基が示している。

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仏典には、時間の長さを表す単位として「劫」がある。劫とは、「カルパ:kalpa」の音写(*劫*波(*劫*簸)を音写)。「きわめて長い時間」をあらわす。

「一劫(いっこう)」とはどれくらいか。約43億2千万年ともいわれる。

インドは限りなく無限に近い時間についての譬話が巧みである。

こういう話がある。

百年に一度、天女が天界から下りてくる。

ヒマラヤのような高山を、天女がシルクの袖ですっと撫でる。そしてまた天界に戻る。そしてまた百年後に下りてきて、シルクの袖ですっと撫でる。そうして、ヒマラヤが消滅するまでの時間が、「一劫」という。

この「一劫」の一億倍が「億劫(おっこう)」。

ああ、「億劫だなあ、つかれるなあ」というように日常語に使われる。

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法華経』では、仏の寿命が無限であることを示す。

たとえば、仏が成道したのは、「五百億塵点劫(五百塵点劫)」だという。

五百千万億那由佗阿僧祇の三千大千世界を微塵となし、東方の五百千万億那由佗阿僧祇の国をすぎて一塵を下し、これらの微塵を尽して、過ぎ去ったあらゆる国をすべて微塵とし、この一塵を一劫とする(「如来寿量品」)。

なお、那由佗阿僧祇とは、数の大きさの単位。「那由他」は10の60乗。「阿僧祇」はサンスクリット語の「असंख्येय」(asaṃkhya)を音訳した言葉で、「無数」と意訳される。

そしてさらに、五百塵点劫のその先に久遠元初の仏がいるとするのが、まあ日蓮聖人本仏論で、創価学会日蓮正宗の教義から借りてきたものである。かくのごとく、「加上」(かじょう)していくのが、仏教の歴史ではある。