過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

日蓮宗妙厳寺での唱題行が突破体験に

夕方、暗くなった本堂で行われた。
はじめに、坐禅。10分くらい。
そして、ゆっくりと太鼓の響きにあわせて、南無妙法蓮華経と唱題が始まる。

ゆっくりの唱題が、だんだん速くなっていく。そして、すごく速くなる。あらん限りの声で唱え続ける。
そうして、すこしずつゆっくり、とてもゆっくり唱えていく。

お題目の声が止む。この間10〜20分間。
そして、また坐禅に入る。10分間。
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この時、唱題前の坐禅と唱題後の坐禅に、明瞭な違いがあることに驚いた。
唱題前と後では、坐禅したときのスッキリ、清明感が質的に違うのだ。雑念が飛んでいる、静まっている。それがありありと感じられた。

はじめの座禅のときには聞こえていなかった、虫の声、風の音、木のそよぎ、本堂のミシミシいう音など、はっきりと聞こえたのだ。
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千葉の夷隅郡大多喜にある日蓮宗妙厳寺でのことだ。40年前の体験。
たけのこ掘り体験があるというので泊りがけで参加したのであった。

日蓮宗のお寺でのきちんとした勤行、そして唱題行ははじめてのことだ。
最初は、日蓮曼荼羅の前に安置してある祖師像(日蓮像)が、すこし気持ちが悪かったが、唱題を続けていくと、まったく違和感はなくなった。

唱題行というのは、リズミカルでパワフル、心身が充実する感覚はある。
とくに信徒が揃って唱えるところにエナジー効果が現れる。

唱題行は、集中瞑想でもある。声をだす丹田呼吸法でもある。次から次へと湧き出てくる(噴出する)思考を沈めさせる。思考は、無駄なエネルギーの漏洩でもあるので、これが静まることで、エネルギーが湧いてくる感じがある。心身まるごと全体を感じるようにもなる。

それが体験できたのは、私の大きな突破体験であった。
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このお寺での朝の勤行は、まず信徒が本堂に集まる。そして、正座していると、廊下の向こうから、団扇太鼓とお題目の響き。遠くからかすかに聞こえ、やがて音の響きが近づいてくる。本堂に住職と尼さんが入ってくる。そして、大きなリンを打ってお経がはじまる。

お経の前の開経偈の文句も素晴らしい。

無上甚深(むじょうじんじん)微妙(みみょう)の法は、百千万劫(ひゃくせんまんごう)にも遭いたてまつること難し。
我れ今見聞(けんもん)し受持することを得たり。願わくは如来の第一義を解せん。
至極の大乗、思議すべからず、見聞触知(けんもんそくち)、皆菩提に近づく。
能詮は報身。所詮は法身。色相の文字は、即ち是れ応身なり。
無量の功徳、皆是の経に集まれり。
是故(このゆえ)に自在に、冥に薫じ密に益す。
有智無智、罪を滅し善を生ず。若は信、若は謗(ぼう)、共に佛道を成ぜん。
三世の諸佛、甚深の妙典なり。生生世世(しょうじょうせせ)、値遇し頂戴せん。
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この上なく深い妙のみ法である法華経には、はかり知れないほどの長いあいだ生きていても、出会うことはむずかしい。
しかし、私はいま、お釈迦さまがほんとうの心をあかされた真実の教えである法華経に出会い、お経の文字を見聞きし、受けたもつことができました。
どうか、お釈迦さまの説かれた第一のすぐれた教えを信じ習いきわめることができるよう、心から誓願します。
最高の大いなる法華経の教えを、私の小さな考えによって理解しようとするのではなく、法華経を見聞きし、お経の文字にすなおにふれて知ることが、そのまま、みなともにみ仏の悟りに近づく、と信じて法華経を読んでいきます。
教えを説かれているのは、限りない命をとこしえに輝かし、いっさいを救い導こうとされているお釈迦さまです。
すべての生きとし生けるものを仏にしようとされているお釈迦さまのお心です。
お経のひとつひとつの文字は、そのままお釈迦さまのお姿そのものです。
はかり知れない功徳は、みな、このお経に集まっています。
法華経を信じれば、おのずから香りに染まるように、功徳は体にしみついて、知らず知らずのうちに、まことの利益をもたらすでしょう。
智慧のある者も、智慧のない者も、これまでおかしてきたすべての罪をなくし、善を生ずることができます。
法華経を信ずる者も、そしる者も、この法華経の広大な功徳につつまれて、みなともに仏になる道を成しとげることができます。
過去・現在・未来の世の、もろもろのみ仏は、この法華経を悟って仏になられました。そのはかりしれない深い悟りの心が、妙なる法華経に示されています。
いくたび生まれかわっても、いつの世に生きようとも、このありがたい法華経にお会いし、おしいただいて信じつづけることを、心からお誓いします。