過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も

南無妙法蓮華経南無阿弥陀仏も、となえて(称名、唱題)みれば、ほとんど変わらない。不動真言も、神道祝詞も、ヒンドゥーマントラも同様だ。それを信仰している人からは、「とんでない」といわれるだろうが。
実践してみれば、身体感覚においてかわらない。
本尊も、なんだっていい。阿弥陀如来像だの六字名号だの、日蓮の真筆漫荼羅だの、やれ大石寺板曼荼羅だの、ごちゃごちゃ論議しても難しく、複雑になるだけ。
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要は集中して実践できるかどうか。そこにかかっている。これは、自分でいろいろ実験、実践してみて、身体感覚から言っている。
強い信仰にある時、集中して実践できるのはたしかだ。イワシの頭も信心からは、そのとおり。ただ、イワシよりは漫荼羅がいいとか、太陽がいいとか、石磐がいいとか、いろいろある。
となえるのも、コカ・コーラより南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏のほうがありがたいだろう。応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん=金剛般若経の一節)というのもある。
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先日、高称(こうしょう)念仏の体験のことを書いたが、今回は、唱題行(南無妙法蓮華経)について書いている。
唱題行は、リズミカルでパワフル、エネルギーが充実する感覚はある。
こちらも、念仏同様、唱え方によって、いろいろ差異が出てくる。
自分が体験したなかでは、日蓮宗(大多喜の妙厳寺)のお寺で体験がひとつの節になっている。
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それは、夕方、暗くなった本堂で行われた。
はじめに、坐禅
そして、ゆっくりと南無妙法蓮華経と唱題が始まる。大太鼓が響く。
ゆっくりの唱題が、だんだん速くなっていく。そして、すごく速くなる。あらん限りの声で唱え続ける。
そうして、すこしずつゆっくり。とてもゆっくり唱えていく。
そして、また坐禅に入る。
この時、唱題前の坐禅と唱題後の坐禅に、明瞭な違いがあることがわかった。
唱題後の坐禅は、まことに頭がスッキリしている。清明感。雑念が飛んでいる、静まっている。それがありありと感じられた。
虫の声、風の音、木のそよぎ、本堂のミシミシいう音など、はっきりと聞こえた。これは、唱題前の坐禅のときには、聞こえていなかったのだ。
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唱題行は、集中瞑想である。声をだす丹田呼吸法でもある。身体を振動させることである。次から次へと湧き出てくる(噴出する)思考を沈めさせることになる。
思考は、無駄なエネルギーの漏洩でもあるので、これが静まることで、エネルギーが湧いてくる感じがある。心身まるごと全体を感じるようにもなる。
ということで、称名も唱題も真言もなんだっていい。声を出さずに、ただただ呼吸に意識を向けること、数息観もすばらしい。
それぞれのはからい、好き好き、縁のあるものに集中するのがいいと思っている。