経典は、「私はこのように聞いた」(如是我聞)ということばから始まる。
「私」とは、釈迦に常にともなっていた阿難(アーナンダ)である。経典は、阿難が釈迦の教えを聞いたことをもとに、つくられたということになっている。
釈迦が滅したあとに、その教えが散逸しないようにまとめるという集いが行われた。「仏典結集」(サンギーティ)という。第一回目は、摩訶迦葉(マハーカッサパ)が主催して行われた。
阿難は、その時点で悟っていなかった(アラハントに達していなかった)ので、その結集には参加できなかった。しかし、結集の行なわれる明け方、悟りを得て参加したと言われる。
そして、五百人の比丘にむかって「わたしはこのようにブッダが教えていることを聞いた」と語る。それを比丘たちが、納得・了解してまとめられたのが経典ということになる。
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この「仏典結集」は、古代インド語のサンスクリットで「サンギーティ」という。「サン」は、一緒に、ともに。サンガ(ともに学び合う集い)のサンだろう。「ギーティ」は、歌である。音律といっていいか。
ブッダの教えを確認しながら、音律にしていた。きっとある種のメロディーになっていたはず。そのほうが覚えやすい、伝わりやすい。この場合、文字にしないで、ギータ(歌)として伝承されていった。文字になったのは、滅後百年後あたりか。
その「ギーティ」が、中国で音訳されて「偈」(偈)になった。有名なのは、『法華経』の「自我偈」である。
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これは、北伝仏教も南伝仏教も同じで、みな阿難が「わたしは聞いた」というところから始まる。
大日如来が説いたとされる密教『大日経』ですら、「かくのごとく我聞けり、一時(あるとき)薄伽梵(ばがぼん)は如来の加持せる広大なる金剛法界宮に住したもう」(『大日経』冒頭の「住心品」)となっている。「理趣経」も、しかりである。
『法華経』も同様である。
「是の如きを我聞きき。一時、仏、王舎城・耆闍崛山(ぎしゃくっせん:霊鷲山)の中に住したまい、大比丘衆万二千人と倶(とも)なりき」(序品第一)ではじまる。
ただ、『般若心経』は異質である。いきなり「観自在菩薩‥‥ではじまる」。また、最古層の経典の『スッタニパータ』や『ダンマパダ』などは、そうなっていない。いきなりブッダの箴言から始まる。
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形式としては、ブッダは「問われれば説く」という対機説法なので、「対告衆」(たいごうしゅう)というものがある。
『法華経』は「如是我聞」ではじまるものの、対告衆なく、いきなり始まる。「無問自説」という。智慧第一の舎利弗(シャーリープトラ)に向かって説かれる(方便品)のだ。
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こないだ創価の会員と話していて、「経典というのは、阿難が釈迦から聞いたとして説かれた形になっているよ」というと驚いていた。
かれらは、朝晩の勤めは、『法華経』の「方便品」と「如来寿量品」をよむ。そのとき「爾時世尊。従三昧安詳而起。告舎利弗。諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。」とくる。「告舎利弗」というので、舎利弗が伝えたと思っていたのであった。
「それはちがうよ、舎利弗は対告衆なんだよ。伝えたのは阿難ということになっている」というと、「いままで、そんなことは考えたことがなかった」という。
まあ、ひとつの宗教にハマると、大前提の基礎的な仏教の仕組みというか、前提をすっ飛ばしていることがたくさんある。
「知らない」ことを知っていれば学ぼうするけれど、「知らないことすら知らない」と、まったくこれは探求の世界は閉ざされてしまう。