過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

創価学会の教義について、まとめたいと思いつつ

創価学会の教義について、まとめたいと思いつつ、あまりに難解なので、うまくいかない。先日、友人とやりとりしたものをもとに、まとめてみた。友人の質問に答える形で書いてみた。

──日蓮の教えは良い波動が出ていると思うんだけど、どうなんだろう。あの不屈の精神は、弾圧をはねのけるために自己防衛的に自意識を高めたのだろうか?

日蓮の波動がいいところは、たくさんの手紙にみられる。弟子に対する思いやりの深さ。そして、駆け引きでなく、純粋に正しい道を歩むところにある。

たしかに日蓮は、自意識がつよいと感じる。自分がつかんだ教えは真実だ、すごいのだという思いが強い。それって、自意識が肥大化したものだと思うけど。まあ、そういう人でないと、布教できないし、佐渡流罪とか、斬首されそうになったり、そんな迫害に耐えられない。

日蓮は、選民思想に通じる。正しい教えを信奉しているのは、自分だけ、自分たちだけ。自分こそが正しい。他は間違っている。糺してあげなくては、という意識が強い。

そして、それらの残滓というか系譜(自分たちだけが正しい。他は間違っているという思い)が創価=公明にあるというのは、認識しておく必要がある。

──日蓮宗日蓮正宗の違いがよくわからない。

大雑把に言うと、 「一神教」(日蓮正宗)と 「多神教」(日蓮宗)の違いみたいなものかなあ。

多神教日蓮宗は、わりと何でもオッケー。「これこそが本尊」というきまりもなく、まあ「日蓮曼荼羅」と「一塔両尊四士」と日蓮像ということになっている。

この相貌を説明するとややこしい。地面から湧き出した多宝塔の左右に、釈迦と多宝如来が座している。またその左右に、上行菩薩無辺行菩薩浄行菩薩安立行菩薩が座す。そして、背後には日蓮曼荼羅。その下には、日蓮像。

その上、鬼子母神三十番神、大黒天、加藤清正など、いろいろな像が安置される。あたかもヒンドゥー教のごとく、諸尊が並ぶ。

──うわー。それは、複雑でわかりにくい。たしかに多神教みたいだ。ところで、創価はどうなるのか。

創価は、もとは日蓮正宗の在家団体であった。顕正会もそうだった。創価は、日蓮正宗の教義から逸脱(いわばヒサシを貸したら、母屋を取られた)したとして、破門された。

しかし、教えは完全に脱却していない。そのため、一神教的に日蓮の表した曼荼羅の複写(江戸時代の日寛という人が書いた曼荼羅の印刷)を本尊としている。その他には置かない。

── 日蓮曼荼羅は、複雑。いろいろな神仏が書かれている。それでいて、一神教なの?

日蓮曼荼羅には、南無妙法蓮華経と書かれた主題を中心に、釈迦と多宝如来。四菩薩、観音や普賢菩薩たち。天台大師や妙楽大師。さらには、天照大神八幡大菩薩愛染明王不動明王も四方には四天王。中央には、……とたくさんの諸尊たちが並ぶ。またまだたくさんあるよ。書ききれない。

これだけみると、多神教みたいだけど、日蓮正宗は、この「曼荼羅だけが尊い」という考え方。

一神教という軸から見ると、日蓮正宗浄土真宗は似ている。浄土真宗は、ただ南無阿弥陀仏のみ。本尊も、南無阿弥陀仏の六字名号か阿弥陀如来。その他のものは本尊にしない。神祇も不拝。

「ひとつの本尊に絞る」という意味で両者は似ている。でも、言っていることは、まるで違うけどけど。

──ところで、日蓮正宗においてお釈迦様の位置づけは、日蓮さんのが上という考え方なの?

日蓮正宗では、日蓮が「本仏」。すなわち、いちばん偉い仏様。究極の仏。なので、釈迦はいわば日蓮の弟子。

日蓮宗では、釈迦が本仏(久遠仏)、日蓮は菩薩(四菩薩のなかの上首、上行菩薩)という関係なので、釈迦が偉い。

──マジ?日蓮正宗、スゴいです!びっくり。そうなると、 日蓮よりもずっと前にインドに生まれたお釈迦さまが、鎌倉時代に生まれた日蓮の弟子というのは、歴史的な見方から、どうしてそうなるの?

そこを論ずると、ものすごくややこしい。神学論争になる。そもそも「法華経」は……というところからはじめなくちゃいけない。

でも、ざっくりいうと、「法華経」で「本地」(ほんらいの姿)を表した釈迦は、じつは「永遠のブッダ」だった。無限の過去のなかで、すでに仏であった。それが、今回、インドで釈迦として生まれた。その「永遠のブッダ」は、無限の過去から、教えを説きつづけてきた。

しかし、無限の過去にいきなり仏としてあらわれれたのではない。じつは、その本当の原因(本因)は、南無妙法蓮華経という教えにある。種にある。その「本因」によって釈迦は「永遠のブッダ」となった。

「南無妙法蓮華経」とは、その源泉、根源、種ともいうべきものである。この「南無妙法蓮華経」によって、釈迦は仏になり、あらゆる諸仏は仏になった。(このあたりは、天台の教義を踏まえる)

その南無妙法蓮華経如来ともいうべき存在が、末法の世に出現し日蓮である。

南無妙法蓮華経と同一なのが、じつに日蓮である。(なぜそうかというと、またややこしい。日蓮は、ひとつ一つ身体的に体験していく。法華経を身で読んだ、という)

まあ、そのようなものすごい論理です。

──ううむ、とてもついていけない。理解を超えている

まあ要するに、自分とこが最高だ、元祖だ、本家だといいたいだけのことかも。理屈はなんとでもつくってことだろうか。