過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

仏教は「加上」で説明できるのかもしれない。

仏教は「加上」で説明できるのかもしれない。
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一つの思想や学説が立つと、さらにそれを超克するために異なった思想や学説がおこってその上に付加され、こうして思想・学說は歴史的に発展していく。歴史的にたえず新しい説が現われ、上へ上へと積み重ねられていく。
これを仏教の経典にあてはめれば、数多くの経典こそまさに「異部加上」の産物である。それらすべてが釈迦一代において説かれたものではなく、歴史的進展にともなって作成され、順次に加上されていった。
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シャカ以前に外道あり、シャカは外道の教えに付加・補整をほどこし(加上)、その結果、仏教が成立した。さらにシャカ滅後、経・律・論の三蔵の編集(結集)が行なわれ、かくして現われたものが小乗仏教である。
その後、文殊の徒があって、小乗に加上をなして般若の教えを作り、ついで法華氏・華厳氏・涅槃氏・嶼部氏(楞伽経)・秘密氏(密教経典)が出て、前説に加上していったので、これがすなわち大乗仏教といわれるものである。
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したがって仏教学者が諸教はみなシャカの金口・直説であると考えたことは愚かなことである。教相判釈なるものは、すべてをシャカの直說と考えた結果、異説・矛盾にたいし、なんとかつじつまを合わせようと、こじつけの解釈をしたものである。
田村芳朗による富永仲基『出定後語』の要約:中公新書法華経」より

1年前の投稿

2022年1月15日  · 
あかりのブロック遊びをみていると、次から次へと上に加えていく。 
それをまたおとうちゃんは、さらに複雑に積み重ねていく。「どうだー!」という異体かつ不可思議がものがつくられていく。
それはやがて壊されて、また新しいものが作られ、また、上へ上へとと積み重ねられて複雑になっていく。
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これは、仏教思想の発展形式も似ていると思う。
とくに仏教において、原始仏教から精緻・複雑な阿毘達磨(アビダルマ)があらわれて小乗となり、戒律も250〜500と数が増えていく。
やがて、商人たちによって大乗仏教が信奉され、あらたな般若(智慧)による仏典が形成されていく。般若経、楞伽経、維摩経華厳経、そして法華経や涅槃経。そうしてまた更に、密教が現れて大日如来による説が説かれていく。
かくして、「先のものよりもこちらがすごいのだ」と主張したいがために、より複雑で難解なものとなっていく。そうして仏教というと、くらくらするような難渋、複雑、重厚、膨大なものとなっていく。
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しかしじつのところ、ブッダのいいたいことはシンプルなものであったろう。深いものは本質的なものはシンプル。
一言でいうと「いまここの自分に気がつくのみ」「人生はいまここの瞬間瞬間にある」。
「わたしが、という心があるために複雑になる」。その「わたしというありようこそが、すべての問題である」と。
そんなことを説いていたのではないか。そのあたりを探求していきたい。