過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

富永仲基の仏教批判

江戸時代の富永仲基という三十二歳の若さで亡くなった天才がいる。
彼の仏教批判は、いまだに説得力がある。その一部を紹介。田村芳朗さんの「法華経」(中公新書)から。引用。
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風土の影響ということについては、たとえばインドの風土的特色は「幻」にあり、この「幻」によって仏教の経典も作成されたという。
「幻」とは無限定とか空想的というような意味である。インドの外道で使われることばであり、仏教では神通などのことばがこれにあたるという。
仏教の諸経典は、この「幻」が動力となって種々の空想的な思想や表現を生みだし、それらが加上されてでき上がったものである。『法華経』の如来寿量品第十六にシャカが久遠仏であることを説いているが、これこそ「幻の幻」なるものであるという。
ちなみに、中国の風土的特色は「文」にあり、日本の風土的特色は「絞」にありとしている。中国人は文辞・弁舌を好み、日本人は簡素・率直な表現を好むということである。
仲基は、「儒の淫する所のものは文にして、仏の淫する所のものは幻なり」『三教」第二十四)と評しているところから、日本の「絞」を最もよしとしているように思われるが、日本人にはいっぽうで「秘伝」を重んじ、物をかくす傾向があり、これは日本人の大きな欠点であるといましめている。
昔は日本人の心はすなおであったけれども、中世から近世にかけておきた芸能や神道の世界では、流儀や流派をやかましくいうようになり、閉鎖的な伝授・相承の制度を設けるにいたったことは、誠の道にはずれるものであると嘆いている。
-------------------(引用終わり)
インドの「幻」をもとにして空想的・思弁的な仏教哲学が創出され、それが中国に於いては「文」を軸にて、精緻な教相判釈が出来上がり、日本においては「絞」ということで、しぼりこんで、集約されていく。
ま、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経だけ唱えればいいとか。さらには、密教や天台本覚論のように、秘伝、切紙相承みたいにむやみに秘密にして伝授していくようになる。