さきほど、たまたま書籍の整理をしていた『法華経』が出てきた。ひらいたところがこれだった。
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此の経に於ては信を以て入ることを得たり。己が智分に非ず。
若し人信ぜずして、此の経を毀謗(きぼう)せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。
其の人命終して、阿鼻獄(あびごく=無間地獄)に入らん。地獄より出でては 当に畜生に堕つべし。
常に飢渇(けかち)に困んで骨肉枯竭せん。生きては楚毒を受け、死しては瓦石(がしゃく)を被らん。仏種を断ずるが故に斯の罪報を受けん。
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この教えを信じなさい。信によってこそ理解することができる。門が開かれる。
信じなければ、無間地獄に堕ちるぞ。やっと地獄から這い上がっても、畜生に生まれて、さんざん苦労するんだ。もし人に生まれても、バカにされ、石を投げられ、みんなから嫌がられるよ。だから、信じなさい。そんな意味だ。
『法華経』は大乗仏教の代表格の経典である。日本天台宗の基軸の経典で、最澄(伝教大師)は『法華経』をもとにして学問と修行の体系を打ち立てようとした。以来、比叡山で修行した僧侶は『法華経』を学ぶ。
鎌倉仏教の祖師たち、法然、親鸞、道元、日蓮など、比叡山『法華経』を学んでいる。
その『法華経』は、徹底して『法華経』に対する「信」を強調する。信じなければ地獄に落ちると言いきる。
じゃあ、なにをどう信じればいいのだ、というとよくわからない。論じていくと、えらく小難しい論理になっていく。日蓮などは、わかりやすく信の当体こそ「南無妙法蓮華経というお題目そのものだ」と主張する。
南無妙法蓮華経こそが、『法華経』の真髄。唱えれば三世諸仏の成仏の種子が得られるのだという。
日蓮には失礼だが、いわばこういうことになるか。
マルクスの「資本論」はすごいぞ。信じなさい。信じないと、罰を受けるぞ。じゃあどうしたらいい。「南無資本論」と唱えるのだ。ということに近いかな。「南無資本論」と唱えても、マルクスの思想・哲学がわかるはずはない。
ともあれ、『法華経』というのは、難しい。内容が突飛もないSFXのような空想物語である。この世の現実の生き方、暮らし方を説いた教えではない。もっとも、数多の大乗経典にそのようなものが多いのだが。
かといって、まったくの空想の虚妄に過ぎないかというと、そうとも言えない。ひとつの象徴として詩としてドラマとして、宇宙の不思議・生命の不思議を説いているとも言えるのかもしれない。
繰り返し繰り返し読んできたが、しかし、やはりわからない。まさに「此の経に於ては信を以て入ることを得たり。己が智分に非ず」ということだろうか。
こうして大乗仏教は、そのベースに「信」を置いている。信する対象というのは、確かめることも難しい。根拠のあるものとも思えない。だからこそ信ぜよ。ということなのだが。このあたりは、キリスト教もイスラム教もユダヤ教も、だいたいおんなじといえようか。