過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「即」ということばが、よく仏教(大乗仏教)に出てくる

「即」ということばが、よく仏教(大乗仏教)に出てくる。
即とは、「すなわち」という意味合いで使われる。即席ラーメンのように、「ただちに・時を移さず」という意味もあるが。

本来、異なった概念・ありようを「即」で結びつけてしまうのが、大乗仏教であり、とくに中国で漢訳化されるときに使われた。

日本的な漢音だと、すらっと発音できて、わからないのにあたかもわかったような気になってしまう。そこがとてもクセモノなんだけど。
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「煩悩即菩提」……「煩悩こそが悟り」「煩悩が薪となってこそ悟りの炎が燃える」のように使われる。本来のブッダの教えでは、煩悩を断って(消滅して)こそ悟り(涅槃)に至る。そのための戒律であり、実修が仏教である。
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「生死即涅槃」……生死(現実生活の迷い、悩み、苦しみ)こそが涅槃である。悟りである。永遠の安らぎであるとする
ブッダの教えでは、生と死を繰り返してゆく輪廻を超えようとする、輪廻を断つのが、涅槃であり解脱である。
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「色即是空・空即是色」……「般若心経」の有名な言葉である。「色」とは現象世界を意味する。現象世界は、実のところ実体がない、瞬間瞬間、変化してやまないものだから「空」である。

「空」とはNothingness、空っぽ、実体がない、永遠なるものが実在しないということになる。量子力学を持ち出すこともなく、すべての現象は、宇宙も一微塵(素粒子)も、たえず運動、変化し続けているということができる。諸行は無常ということだ。

しかし、大乗仏教に至ると、「空即是色」となる。Nothingnessがじつのところ、Everythingとなる。このあたりは、ちょっと論じるのに手間取るので、今回は離れる。
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「即身成仏」……直ちに成仏してしまう。現世で悟りを得る。この身体を離れずして悟りを得る。「即身」は、この肉体を離れないということ。

本来のブッダの教えでは、生死を流転し修行し続けて、ついに悟りを得るというような意味合いが強いのだが、密教においては、即身成仏と説かれる。
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仏法即生活……仏法とはこの生きている現実、生活そのものである。生活を離れて仏法はない。これは、創価学会などがよく述べている教えだ。この逆境を乗り越えるところにこそ、幸福があるということだろう。
ちなみに、「方便究竟」(大日経)「化城即宝処」(日蓮:御義口伝)などと、現実生活こそが真理であり、究極であると説かれる。

ブッダの教えでは、世間を離れる。「出世間」の教えである。出家者、あるいはサンガ(集団)のなかにも生活はあるのだが、仏法とはそもそも、生活を離れるところにある。「ひとり歩め」と説かれる。
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似たような言葉の使い方としては、「不二」「一如」がある。「冥合」もある。「生死不二」「而二不二」「王仏冥合」、また仏教以外でも「身土不二」「心身一如」「物心一如」など、使われる。これについては、また別の機会に述べたい。