過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

日蓮を「予言者」として論じてみる

日蓮は、仏典に示された言葉を「予言」ととらえた。
そして、予言が実現していく歴史的な文脈のなかで、自らを主人公と自覚していく。

昨日はユダヤ教の「預言者」について投稿したが、今回は日蓮を「予言者」として論じてみる。
  ▽
釈迦の教えは年月を経てゆくたびに、形骸化し争いごとが多くなる。教えがあっても実践する人はいないし、悟る人もいない。それが末法の世であると。(「我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」(大集経))

その末法にこそ、偉大なる教えが弘まる。
偉大なる教えとは『法華経』であり、その精髄こそ「南無妙法蓮華経」である。(如来神力品「要を以て之を言わば如来の一切の所有の法乃至皆此の経に於て宣示顕説す」)
そのようにとらえた。
  ▽
その正しい教えを弘めると、さまざまな苦難に遭う。悪口、罵倒、打擲、そして殺されそうになったり流罪に及ぶ。そのように、経典には書かれている。(『法華経』勧持品二十行の偈)。

日蓮は『法華経』を弘めたがゆえに、数々の難に遭う。襲われて弟子が殺され、自らも額に傷を被る。伊豆に流罪される。また、捕らえられて斬首されそうになり(龍口法難)、佐渡流罪となる。佐渡では、風雪などの厳しい自然環境下で過ごす。

まさに、それは経文の通りではないか。

仏教はインドに起こり、中国、朝鮮、そして日本に渡った。その間、数々の仏師・論旨がでたが、『法華経』という正しい教えのために、苦難にあった人は一人もいない。とくに、たびたび流罪に遭い、死罪になるというような者は、自分しかいない。

「だからますます自分は正しい。正しいがゆえに難に遭うのだ」と確信を深めていく。

そして、末法にこそ『法華経』の精髄である南無妙法蓮華経が弘まるとある。(『法華経』普賢品「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん)。

如来の滅後に於て、応当に一心に受持・読誦し解説・書写し説の如く修行すべし」「我が滅度の後に於て斯の経を受持すべし(『法華経』神力品)とある。

それを弘める資格のある者こそ地涌の菩薩であり、とりわけその棟梁たる上行菩薩である。

「もしや、自分こそが、その上行菩薩ではないか。そうにちがいない」と、日蓮はとらえた。
  ▽
後世そこから、「日蓮本仏論」というものすごい教義がつくられていく。日蓮こそが本仏である、すなわち南無妙法蓮華経という真理と一体の究極の仏である。

本地は、自受用報身如来ということで、釈迦よりも遥かに偉い。いわばすべての創造されたものの源泉と。いわば唯一絶対神のごとし。

その教えを継承してきたのが富士門流であり、日蓮正宗大石寺である。その在家の団体が創価学会創価学会の教義の中核には日蓮本仏論があった(しかも、日蓮池田大作はかぶる)。

しかし、大石寺創価学会は仲違いを起こして、創価学会は破門され、いまや互いに仏敵と罵り合っているのが現状である。
  ▽
さて、日蓮は仏典の予言を自らあてて読むとともに、国家社会にもあてはめていく。

いま地震、飢饉、疫病が蔓延し、おびただしい死者が出ている。国土が乱れているのは、誤った教えが広まっているからである(法然浄土教)。

正しい教え(日蓮にとっては『法華経』)が広まれば、国土は鎮まる。諸天善神が守護してくれるようになる。そのような書=『立正安国論』を39歳のときに、時の執権 北条時頼に提出する。

幕府は法然浄土教禅宗真言宗などの邪教を禁止して、『法華経』を信奉しないと、さらに苦難が押し寄せるぞ。放置しておくと、近いうちに他の国が攻めてくるぞ、自国内で同士討ちが起こるぞと迫った。

そして、『立正安国論』を上程してから14年後、蒙古が襲来する(文永の役=1274年、弘安の役=1281年)。さあ、予言が実現した。どうする、どうすると幕府に迫る。
  ▽
この国は蒙古に責められて、壊滅的なことになるに違いない。そのときに、「ああ、日蓮の言うことを信じておけばよかった」と後悔しても遅いのだ、と日蓮は言う。

幕府はしかし、それはたしかに、あなたのいう予言は事実のようだ。しかし、他の教えを邪教として禁止するなどとてもできない。あなたは、他宗派の悪口など言わずにおとなしくしていればいい。まあ、そういう扱いを受けた。

ということで、日蓮は、もう山奥(身延山)に引きこもって庵をつくり、弟子を育成しながら9か年を過ごす。

しかし、そこは日当たりも悪く湿気もあり、食べ物も事欠き、苦難は続く。そして、ついには病になってしまう。そこで、有縁のものが温泉の療養をすすめる。行き先は、なんと常陸(いまの茨城)の温泉である。

しかし旅の途中、いよいよい病は重たくなり、檀越の池上宗仲の館(いまの大田区池上)に到着するや、臥してしまう。そして一ヶ月後に亡くなる。
  ▽
日蓮の最後の手紙というものの写本が残っている。弟子の日興が代筆したもので、真筆はなく写本である。(「波木井殿御報」)
要約するとこういうことだ。

難儀しましたが、やっと池上までたどり着くことが出来ました。なにぶん病中の身ですので、いつどこでどうなるやも知れません。本来ならば日本国中の誰もが持て余すような私に、九年間にわたり帰依下さった波木井殿のお志は申し上げようもありません。せめてどこで死のうとも私の墓は身延の沢に建てていただきたい。

私のためにご用意いただいた栗鹿毛(くりかげ)の御馬はとても立派で頼もしいので、いつまでも手放したくはありませんし常陸の湯へも引き連れて行きたいところですが、道の途中で人に奪われるかもしれません。それでは御馬が可哀想に思いますので、湯より帰ってくるまでの間、上総(かずさ)の藻原(もばら)殿に預けておきたいと思います。しかし見知らぬ家来の方に御馬をおまかせするのは不安に思います。私が戻るまでこれまで同様波木井殿の護衛の方にお世話いただくようにいたします。九月十九日 日蓮
病中につき署名や花押(かおう)を省略しましたこと、お許し下さい。
  ▽
まあそのように、生前、それほど布教には成功しなかった日蓮であるが、後世に与えた影響は大きい。

日蓮系の信徒など、創価学会も含めれば2,000万人も3,000万人にもなる。海外にも布教されている。

日蓮の説には数々の矛盾、問題点はあるのだが、それはまた別の機会に。