過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

イエスの生涯は、すべて過去の預言者が述べてきたことと符合する、むしろ預言が成就するたためにイエスが出現したということができる。

エスの生涯は、すべて過去の預言者が述べてきたことと符合する、むしろ預言が成就するたためにイエスが出現したということができる。

新約聖書』には、イエスの行ったことに、「預言が成就するため」ということがよく書かれている。
生まれる前にエジプトに避難したり、ロバに乗ってイスラエルに入城したり、弟子に裏切られたり、死人から蘇ったり、いちじくの木を枯れさせたり、それらの一つひとつは「預言が成就するため」と書かれてある。

「預言」とは、神から言葉を「預けられた」こと。神が人間に託したメッセージ。いわゆるチャネリングのようなものかもしれない。直接、神からその者に届いたり、聖霊を通して伝えられたりする。だいたいは「悔いあらためよ、神の国は近づいた」みたいなことを述べている。

モーゼもエリヤも、預言者といえる。ダビデ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエルなど、ヨハネなど聖書には20人くらいがあらわれる。ヨハネはイエスを洗礼した人物である。

「予言」(prediction)とはちがう。「予言」は未来に起こるであろうことを述べている。「ノストラダムスの大予言」のような。ちなみに、仏典に書かれたことを「予言」とみて、自らに起きたことを予言が実現した、われこそは仏典に予言されたものであるというや思いを強くしたのは、鎌倉時代日蓮である。これはまた、別の機会に投稿する。
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旧約聖書』すなわちユダヤ教は、神の言葉を託された預言者の言葉が収められた書といえる。
それは唯一絶対なる神の言葉であるから、かならず実現する、成就せねばならぬというのが、ユダヤの信仰の基軸だと思う。

「もし預言者があって、主の名によって語っても、その言葉が成就せず、またその事が起らない時は、それは主が語られた言葉ではなく、その預言者がほしいままに語ったのである。その預言者を恐れるに及ばない。」(申命記

その意味で、聖書の作者たちは、イエスはすでに神によって用意されていた存在である、神の子であるといいたいのだと思う。
その事例は、たくさんあるが、引用が煩瑣になるので、数例にとどめた。
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ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。
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主の使が夢でヨセフに現れて言った、「立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている」。そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって「エジプトからわが子を呼び出した」と言われたことが、成就するためである。
さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。
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「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊ダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。

こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、 主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。(銀貨30枚で、イエスを裏切ったユダ)
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「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。(十字架で死んだイエスの着ていた衣を、くじ引きで分け合う)

これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」とある。(イエスが復活したところ)

神はあらゆる預言者の口をとおして、キリストの受難を予告しておられたが、それをこのように成就なさったのである。