浄土の教えとは、「西方極楽浄土に往生する」ためのものである。念仏を行じ、極楽往生を願うことがたいせつとされる。(「無量寿経」や「観無量寿経」によれば)
もっともたいせつなのは、死の瞬間である。そのときに、極楽往生をきちっと念ずることで、往生が実現される。それが難しい人は、たった一遍の念仏でもいい。最低限の往生は確保されると説かれる。(「観無量寿経」など)
平安の貴族たちは、来世もまたこの栄華を得ようとして、極楽往生を願った。なにより死の瞬間のありかたを大切にした。たとえば、藤原道長は、金色九体の阿弥陀仏の手と結ばれた五色の糸を握りしめ、数多の僧侶がとなえる念仏の響きに包まれて息を引きとった。
しかし、それで往生したかどうかは、わからない。そもそも極楽があるかないのか、わからないことであるが。
死は不定。さあこれから死ぬぞと、準備するのは難しい。ままさに死の瞬間に、心が定まって極楽往生を念ずるなど、とても至難とおもう。
なので、暮らしの中で、どんなときでも、いつ死が臨んだとしても、極楽往生したいという念を継続することがたいせつ。そのために日々の念仏の行があるされる。
さて、親鸞の教えである。もちろん浄土の教えである。しかし、死を待って往生しようという教えではない。ここが浄土真宗の教えの難しいところだ。
念仏を行じなくてもいい。死に臨むときに、往生しようと願わなくてもいい。阿弥陀如来の広大な慈悲は、すべての人を救いとってくださるのである。どんな人でも。阿弥陀にすれば、みな等しい我が子のようであり、そこに信や行や人格や功徳の差別などない。
しかし、いくらなんでも、往生したい、阿弥陀様に救われたいという「願い」や「信」か必要じゃないだろうか。
親鸞の教えにあっては、極論すれば、それすら必要ない。自らの力で起こす願いとか信というものは、そもそも阿弥陀如来から発している。弥陀のほうから、すくいとってくださるのである。だから、すでにして、生きているうちに、極楽往生はまちがいない。そのように、深く領解したとき、報恩感謝の念仏が起きるのである。
キリスト教のパウロの教えにも通じるものを感じる。神は信じる者しか救わないという了見の狭いものではない。すべての人を救ってくださる。信というのがもちろんたいせつなのだが、神よりたまわった信である。そののように、パウロは言う。
……この投稿は、考えをまとめるために書いているので、かなりざっくりしている。真宗あるいはキリスト教の方からすると、それは違うよ、というところが多々あるかと思います。そこを指摘して、修正してくださればありがたいです。
死の瞬間に念ずることの意味、意義。信そのものすら必要ないというありようについて。そもそも信ってなんだろう、とか。いろいろ確認したいところがありまして。