過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

浄土真宗のお坊さんとの対話⑦ 二種深心

浄土真宗のお坊さんとの対話⑦

──さて本題、「新領解文」が親鸞の教えと逸脱しているかどうかについて、お聞きしたいのですが。

「はい」

──たとえば、親鸞の教えの根幹には、「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」すでに救われているというのが、親鸞の教えのエッセスと思います。

しかしその前提として、「二種深心」があると思います。
親鸞の師匠の法然が『選択集』で述べています。
「深心と言うは、すなわちこれ深く信ずるの心なり。また二種有り。一には決定して、深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと信ず。二には決定して、深く彼の阿弥陀仏四十八願をもって、衆生を摂受したまう。」
 ▽
一つは、自分は罪悪深重の凡夫で、出離(悩み苦しみから離れる)の縁がないのだと思い知らされること。ふたつには、阿弥陀如来が必ず救ってくださると信ずること。

歎異抄を例にとれば、一つは「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」。自分はどうしようもない存在で地獄に落ちるしかないと思い知る。その上で「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と、すべての人を阿弥陀如来は救ってくださると信ずる。

この二種深心が「新領解文」には出てこないんですね。
 ▽
「はい。おっしゃるとおりだと思いますが、まず二種深心は、法然上人師と仰ぐ、中国の善導大師が『観経疏』で言われたことですね。引用しましょう。

深心といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。 また二種あり。
一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず(観経疏)」

──まったく『選択集』の言葉と同じですね。
ところが、『新領解文』は、〈「われにまかせよ そのまま救うの 弥陀のよび声 私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ「そのまま救う」が 弥陀のよび声〉とあって、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という深心が欠落していると思います。

そして、それはまさに「煩悩を滅せずして、そのまま救われるという「本覚思想」そのものにみえますけど。

「なかなか難しいところですが、『正信偈』(親鸞の『教行信証』から引用して門徒が日々おとなえする偈)には〈能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃〉とあります。親鸞聖人も煩悩を断ぜずして、涅槃を得るとは言われているんですね。だから、親鸞聖人の教えと逸脱しているとは言い難い。」

──なるほど。では次に、「これもひとえに宗祖親鸞聖人と法灯を伝承された 歴代宗主の尊いお導きに よるものです」の言葉にいきたいと思います。(続く)