過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「墓などいらない」という人が増えてきているのはたしかだ

「寺離れ」「墓離れ」が進んできているという実感。60代はもちろん。そして70代も、さらには80代も。
 
ぼくたちの世代は、まだ自分の死について、リアルに感じてないために、墓はいらないというのかもしれない、しかし、リアルに死が近づきつつある70代、80代はどうだろうか
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近頃、出会った人と話をすると、この世代でも、「墓はいらない」という人が増えてきていると感じる。
 
こないだ会った80代の男性は、「墓などいらない。遺骨も灰にして適当に海や川や山にでも、撒いてくれればいい」と言っていた。
 
昨日は、ひとり暮らしの80代の女性と話した。息子と娘は東京に暮らしている。
 
「自分が死んだら、身内だけでひっそり葬儀をやってほしい。盛大にやる必要はまったくない。死んだ後のことはどうしようかと悩んでいた。そうだ、池谷さんにすべてお願いすればいいと気がついた。池谷さんに、お経をよんでもらって、あとはよろしくお願いしたい」。そう頼まれた。
 
「戒名はどうしますか」というと、「そんなものはいらない」という。「まあでも、自分で気に入ったのを、いまから考えておくのも悪くないかも。試しにいくつか作ってみましょうか」と言うと、「まあ、それもいいかもしれないね」と。
 
「ところで、お墓はどうしますか?」と聞くと「墓なんていらない。こちらに先祖の墓もないし、子どもたちも墓があったら困ると思う。合祀墓でも散骨でも、なんでもいい。そのあたりもお願いしたい」と。
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そして別の70代後半の女性。夫が亡くなったが、戒名は自分でつけたという。夫にふさわしい、自分が気に入った漢字をつなげてつくったという。心がこもっている。それを見せてもらう。
 
そして最近、カトリック教会での葬儀に参列したが、心がこもっていて、すばらしかったと言っていた。それに比べてお寺は、お金ばかりとって心がこもっていない、と嘆いてもいた。
 
そして、70代後半の男性。妻が死んだら、自分で棺桶を作る墓はいらない。お坊さんも呼ぶ必要ない。手元供養として、ほんのすこしの遺灰を入れるモニュメントを作ろうかと思う、と。
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それまでの慣習やしきたり、世間体など気にせずに、それぞれが「納得のいくおくり」をするのがいちばんいい
 
たいせつなのは日々の供養である。日々の先祖への感謝だと思う。だがそのために、とくにお坊さんにやってもらう必要はない。自分でやればいいのだし、それが本義、本質であると思う。
 
お経を読む必要だってない(そもそも死者の供養のお経など、世にひとつもないのだ)。ともあれ、いろいろ事例を聞いてレポートとしていく。